2012年06月17日「主を仰いで救いを」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書45章20~25節

説教要旨:
22節「地の果てのすべての人よ、わたしを仰いで、救いを得よ」と呼びかけられています。神の救いはすべての人へと呼びかけられています。
にもかかわらずイスラエルの民は自分たちだけが救いの民であると勘違いしました。
さらにそれゆえの慢心ゆえか、偶像礼拝に走りました。
本来なら神の選びの民としてヤハウエの神のみを神とすべきであったのですが、そうとはならず、他の民族の神々もヤハウエの神と並んで拝むことをしたのです。
神はイスラエルの選民信仰と偶像礼拝に対して預言者イザヤの口を通してイスラエルの方向転換を求めています。
偶像礼拝から離れ、神に立ち帰り、世界の民に神の救いは全人類にあることを告げるようにと促すのです。
イスラエルは私たちの反面教師です。私たちもイスラエルのように偶像礼拝に陥ることはないのか自問反省しましょう。イスラエルと同じように神と並んでこの世の偶像を拝んではいないでしょうか。神礼拝と偶像礼拝とは並び立つことはできません。
偶像は何も形に現れたものだけではありません。
形にならない偶像もこの世には多くあります。それを偶像とは意識せずいることもあります。
いかに偶像が美しく、精巧に造られていても、また偶像が偶像でないかのように見せかけて、人々の心を誘惑し、帰依させようとも、そこには救いはありません。
真の救いは神からのみ来るのです。

2012年06月03日「恐れるな」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書10章26~33節

説教要旨:
イエスは「恐れるな」と言われます。今日の箇所だけでなく、ほかの箇所においてもイエスはしばしば「恐れるな」と言われます。
その御声を聞くことで私たちは力を得ることができます。
私たちは苦難や試練に直面するとき、たじろぎ恐れることがあります。
なかなか苦難や試練と真正面から向き合うことができないことがあります。
そんなときイエスの御声を聞くことで向き合うことができるのです。そして御声に支えられて、また力を得て、苦難や試練を乗り越えることができるのです。
今日の箇所でイエスは、弟子たちにやがて迫害が来るであろうが、「迫害する者」を「恐れるな」と言われます。「迫害」それ自体を恐れるなではありません。
迫害が激しければ激しいほど私たちは恐れを感じます。イエスはそれをよくご存知です。否定されません。
そんな私たちの弱さをイエスはよく知っていますから迫害に対しては自ら盾となってくださいます。
迫害者がキリスト者に加える迫害に対してイエスが自ら盾をなってくださるなら、どうして迫害者を恐れる必要がありましょう。すでに迫害者は敗北の中にあります。
ですからイエスは迫害自体を恐れるなと言われているのではなく、迫害する者を恐れるなと言うのです。
私たちが神によって知られているように、迫害する者も神によって知られています。
いかに迫害する者が反キリストであるかをイエスはよくご存知であります。
最後の審判のときには必ず彼らは神によって裁かれるます。そしてそのとき
神の義は完成されます。だから迫害する者の運命はすでに定まっているのです。
迫害する者こそ、神を恐れるべきであるのだとイエスは言われているのです。