2012年02月19日「恵みの充満」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書14章13~21節

説教要旨:
今日の箇所はいわゆる「5000人の給食」の奇跡物語です。
とても常識では考えられないことが起こっています。わずか5つのパンと2匹の魚から
5000人以上の人が満腹したのです。本当にこんなことが起こったのかと疑問に思われる
方も多いことでしょう。そこでこの物語を精神的に読むということがあります。
5000人が満腹したのは、イエスの言葉を聞くことによるものであり、肉体的に満腹したのではないと説明するのです。でもそれでは半分の理解であります。
彼らは肉体的にも精神的にも満腹したのです。
これが神の国であります。神の国は精神的な面で事足れリというものではありません。
神の国は肉体的な面においても人を充足させていきます。ですから実際に5000人もの人が肉体的にも満腹したのです。
どうやってでしょうか。それはイエスが天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂くことで起こりました。私たちは奇跡を待ち望むなら、神に向かう必要があります。
そして主を讃美することが大切です。私たちは困難な中にあって、神を仰ぐことはあっても、主を讃美することは少ないのではないのでしょうか。
そしてパンを裂くのです。イエスはパンを5つから10、20、30、100、200と言う具合に増やしていったのではありません。裂いたのです。それは分かち合うためであります。
分かち合いにおいて、5000人もの人が満腹できたのです。一人分はいかに小さくとも、それが主によって与えられるとき、その人のうちで大きく膨張し、満腹できるのです。

2012年02月12日「み赦しあらずば」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書18章21~35節

説教要旨:
今日の箇所の譬えでは、仲間を赦さない家来が登場しています。
イエスはペトロが「7回まで赦すべきでしょうか」との問いに「7回の70倍」と返答されました。7回の70倍とは限りなく赦せということであります。
とても人間にはできないことです。ペトロがそれは無理ですと言う前にイエスは、天の国のたとえを話されます。王様から1万タラントンもの巨額の借金をしている家来がいます。とても一人では返せる額ではありません。
王は返済期日が来たので返すように命じます。家来はできないので、待ってくれるように懇願します。
そんな家来を憐れみ、王はすべての借金を帳消しにしたのです。
家来は本来なら返すべき借金を返せずに滅ぶべきところにあったのに、王の憐れみによって救われたのです。にもかかわらず仲間に貸してあった100デナリオンを返すように仲間に迫ります。仲間は返すから待ってくれというのですが、家来は承知せず仲間を牢に入れてしまうのです。
このたとえで言わんとされていることは、1万タラントンという返すことができないほどの罪の負債を私たちは皆神に負っているということです。本来なら借金で滅ぶはずの者が、主の憐れみにより赦され救われた者であるということです。
借金の帳消しということで負債をゼロにされたというレベルでとどまるのではなく、途方もない罪の赦しの恵みを神からいただいているのだと私たちは知ることが大事であります。ゼロではなく、罪の赦しという巨額(1万タラントン)のプラスとしての恵みをいただいているということです。
であるなら、1万タラントンに比べればわずかな額である100デナリオンを惜しんで、仲間を責めるのではなく、赦すということが大切なのではないのかとイエスは言われているのです。
イエスが説いた天の国(他の福音書では神の国ですが)はそのような赦しの世界であります。
その根源にあるのが私たちは皆主によって赦され、生かされている存在であるということであります。そのことを深く知ることなしには、私たちは依然として罪の負債を膨らます者としてあり続けるということです。そして仲間を赦さない家来としてあり続けることになるのです。

2012年02月05日「御言葉に従う栄光」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書30章18~26節

説教要旨:
預言者イザヤが登場した当時は、イスラエルは南北に王国は分裂していました。
そして大国アッシリアが攻撃をしかけ、国は危機の中にありました。
その危機を脱するために神に頼るよりも、エジプトの力に頼る方を選ぶ方向で民は向かっていたのです。そんな中イザヤは神に立ち帰るように民に語っていったのです。
神に立ち帰るなら、祝福を与えると語るのです。
問題はイザヤを通して語られる神の言葉に信頼し、従うかどうかです。
それが民にはできなかったのです。
この世的に考えれば、神よりも、この世的な力(たとえば、エジプトの軍事力)に頼る方が現実的であると思われるでしょう。民もそう考えたのです。信仰なき人にとっては、現実的な考えかもしれませんが、真の信仰者にとっては非現実的な考えです。
目に見える力に頼るのではなく、目に見えない力=神の力に頼るべきであるのです。
信仰者は神の現実に信頼する者です。神の現実こそ、言い換えれば、神の御言葉こそ真に信頼に値するものであるのです。人間の現実は移ろいやすいものです。
目に見えるこの世的現実は明日には非現実になるかもしれません。
人間の言葉は短期的には現実を映しているようで、中長期的に見れば、現実的でないことが多いものです。その結果短期的にも結局現実を映していなかったということになるのです。
神の御言葉はたとい未来を指し示していても、それはすでに今現実なるものとして受け入れ、従うとき、神の祝福が訪れるのです。