2009年6月28日「キリストの愛のうちに」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節
17、もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょう か。決してそうではない。
19、わたしは、神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
20、生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛 し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
21、わたしは、神の恵みを無にしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

説教要旨
パウロにとって律法は彼の信仰のすべてと言っていいほどの意味をもっていました。律法の遵守によって義とされる、救われると考えていたのですから、守るこ とに熱心になるのも分かります。しかしその熱心さが神に向かって自らの義を主張するようになっていたのです。
一点一画漏れることなく守ろうとすることはしんどいことです。しんどいゆえに神に自らの義を訴えることになるのです。しかし神はただ律法の遵守を要求する だけで応えてくれません。どれだけ守れば義とされるのか分からないから、また律法に励むことになります。 律法に励むには、義とされたいという欲求だけでなく、神からの罰を避けたいという思いがあったのです。

パウロはそのことの誤りをキリストとの出会いによって正されます。パウロにキリストを通して現れた神は律法をただ守るように要求し、守られない場合 は罰を与えるというような恐い神ではなく、十字架に私たち人間を救うために御子イエス・キリストを渡すほどに人間を愛する神でありました。
律法の迫りにおいて義とされようとする信仰ではなく、十字架上の神の愛の迫りにおいて、目を開かれ、義とされる信仰へと彼は転換したのであります。

律法にって生きる古い自分は死に、十字架に現れた神の愛によって新たに生まれたのです。今パウロはキリストの愛のうちに包まれて生かされているので す。内も外もすっかりキリストのものとなっているのです。
ここに私たち人間の本当の姿があります。パウロのようになるまで私たちは失われた者であります。本来の自分を見失っているのです。見失っている自分を神は 見出し、キリストの愛をもって迫り、愛をもって目を開き、愛の内に匿いたもうのです。そこに大いなる平安と喜びをパウロは見出したのです。

2009年6月21日「自由な生き方」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙3章1~14節
7、だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。
9、それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。
11、律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
14、それは、アブラハム与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちか、約束された"霊"を信仰によって受け るためでした。

説教要旨

今日の箇所は私たちが生きる上で大切なことが言われています。
それは自由であることの大切さです。自由は決して放縦ではありません。自由には責任が伴います。聖書における自由はキリストにある自由であります。キリス トに対しての私たちの責任を全うしていくところに真の自由があるのです。

その責任を果たす上で聖霊が必要となるのです。聖霊抜きで果たそうとするとき自由は失われます。窮屈な生き方が生まれます。パウロがガラテヤの教会 の人々を批判するのは、キリストへの責任ではなく、律法への責任になっていることであります。
律法の奴隷になってしまっている上、聖霊抜きで律法を全うしようとしていることでキリストにある自由が失われてしまっていることでありました。キリストは 十字架において律法の奴隷から私たちを解き放ち、キリストのもとに生きる自由を与えてくださいました。

しかしこの自由をガラテヤ教会の人々は律法へとあずけてしまったのです。私たちもさまざまなものにキリストにある自由をあずけてしまうことがありま す。この世で支配的な考えや価値観、風潮などに自らをあずけ、そのもとで右往左往しながら生きているときがあります。
そんなときキリストが見えなくなっています。私たちが合わせるべき物差しはイエス・キリストです。この世の物差しかイエス・キリストの物差しか、その選択 において私たちの自由な生き方も左右されることを覚えたいと思います。

2009年6月7日「目からうろこ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録9章9~19節
9、サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
10、ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは「主よ、ここにおります」と言った。
11、すると、主は言われた。「立って『直線通り』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈ってい る。
12、アナニアという人が入ってきて自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」

説教要旨

今日の箇所は、復活の主イエスに出会い、目が見えなくなったその後のパウロのことが 書かれています。目が見えなくなったパウロが目からうろこのようなものが落ち、目が見えるようになり、洗礼を受けるというパウロの人生に一大転換を引き起 こすことが描かれています。
神は不思議な導きをもってパウロもアナニアも導きます。パウロはクリスチャンを激しく迫害することに熱心な人でした。一方のアナニアは迫害を受けているク リスチャンであります。

そのアナニアに主はパウロの目を見えるようにせよと言われるのです。 それを聞いたアナニアは思ったことでしょう。「なんて無茶なことを主は言われるのだろうか」と。
パウロを懲らしめよというのではなく、パウロを癒せと言われるのです。パウロという名前を聞くだけでも嫌悪感をもよおすのに、癒せとは何事であるか。アナ ニアは大いなる葛藤を覚えたことでしょう。しかし主は「行け」と言われるのです。
アナニアは抗しきれずにパウロのところへ行きます。嫌悪するパウロと面会します。 そのパウロに手を置いて「兄弟サウル(パウロ)」と発したのです。全く人間わざでは考えられないことが起こったのです。クリスチャンを迫害するパウロに対 して兄弟と呼んだのです。
パウロの方はパウロで、憎悪するクリスチャンに手を置かれ、「兄弟」と呼ばれるとは全く思ってもみないことでした。 このことは聖霊のなせるわざであります。パウロの目からうろこのようなものが落ちたのです。

パウロのみならずアナニアも同じように目からうろこのようなものが落ちたといえます。人間わざではありえないことが起こったのです。聖霊はまことに 目からうろこの経験へとパウロやアナニアだけでなく、私たちも導くのです。そして目が開かれた私たちを待ち受けるのはこれまでとは違う世界であります。和 解の福音の世界がそこに待ち受けているのです。