17、もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょう か。決してそうではない。
19、わたしは、神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
20、生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛 し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
21、わたしは、神の恵みを無にしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
説教要旨
パウロにとって律法は彼の信仰のすべてと言っていいほどの意味をもっていました。律法の遵守によって義とされる、救われると考えていたのですから、守るこ とに熱心になるのも分かります。しかしその熱心さが神に向かって自らの義を主張するようになっていたのです。
一点一画漏れることなく守ろうとすることはしんどいことです。しんどいゆえに神に自らの義を訴えることになるのです。しかし神はただ律法の遵守を要求する だけで応えてくれません。どれだけ守れば義とされるのか分からないから、また律法に励むことになります。 律法に励むには、義とされたいという欲求だけでなく、神からの罰を避けたいという思いがあったのです。
パウロはそのことの誤りをキリストとの出会いによって正されます。パウロにキリストを通して現れた神は律法をただ守るように要求し、守られない場合 は罰を与えるというような恐い神ではなく、十字架に私たち人間を救うために御子イエス・キリストを渡すほどに人間を愛する神でありました。
律法の迫りにおいて義とされようとする信仰ではなく、十字架上の神の愛の迫りにおいて、目を開かれ、義とされる信仰へと彼は転換したのであります。
律法にって生きる古い自分は死に、十字架に現れた神の愛によって新たに生まれたのです。今パウロはキリストの愛のうちに包まれて生かされているので す。内も外もすっかりキリストのものとなっているのです。
ここに私たち人間の本当の姿があります。パウロのようになるまで私たちは失われた者であります。本来の自分を見失っているのです。見失っている自分を神は 見出し、キリストの愛をもって迫り、愛をもって目を開き、愛の内に匿いたもうのです。そこに大いなる平安と喜びをパウロは見出したのです。