2013年09月29日「最初と最後の言葉」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記1章1~3節、ヨハネの黙示録1章1~8節

説教要旨:
私たちの人生の初め(誕生)と終わり(死)は自分では決定できないものです。聖書は生と死は神の御手のうちにあると考えています。
またその誕生と死を、自身が関係する人たちがどう見ているのか、ということも決定できないことであります。
では神はどう見ているのでしょうか。
創世記によれば、1章の天地創造において神はまず「光あれ」という言葉を発せられ、この世界が光に満ちるようにと祝福されています。そして創造の6日目に人間を造られた後、「極めて良かった」と言われました。ですから人間の命は呪われたものではなく、良いものであるのです。
神は私たちの誕生を良きものとして見られているのです。人がその人の誕生を歓迎していない場合でも、神にあっては良きものであるのです。
それが人間の罪の結果、光に満ちた世界であるべきところに闇が生じてしまうのです。
それはまた私たちの誕生後の人生において、私たちが犯す罪によって闇が生じ、決して良い人生とは見えないという結果をもたらすのです。
もし私たちの人生が良きものとして見えうるとするなら、それは罪が贖われ、ゆるされるということがなければならないのです。
神は御子イエス・キリストの十字架を通して、罪深い私たちの人生を良きものとされます。
世間の人が見て、決して良き人生とは見ない人生であっても、神にあっては、確かに良き人生であるのです。
世間の人が良き人生と見ていても、もしその人がイエス・キリストによる罪の贖いを受けていないなら、本当はその人の人生は良き人生とは言えないのです。
では終わり(死)においてはどうでしょうか。キリストの罪の贖いとゆるしを受けているなら、その死もまた呪われるものでは決してなく、良きものであるのです。
そしてキリストの再臨のとき、つまり終末のときですが、そのとき私たちは眠りから覚め、復活し、神の御前に立たねばなりません。
そのときも永遠の命をいただくという祝福のうちに私たちは、神の永遠の御国へと入ることができます。
すべての罪を贖う十字架の主イエス・キリストが私たちの弁護者として私たちのために神にとりなしてくださるからであります。
その御国においては、もはや闇は一切ありません。神が私たちと共に住まわれる光に満ちた世界です。
神の最初の言葉「光あれ」という言葉が完全に実現するのです。

2013年09月22日「主に信頼する者」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エレミヤ書17章5~13節

説教要旨:
主に信頼する人と人間に信頼する人とが対比的に述べられています。
私たちの現実は大体その中間的な位置にあるのではないのでしょうか。
主に信頼すること50パーセント、人に信頼すること50パーセントとか、その割合は場合によって違うでしょうが、信頼において神か人かの折衷的なところがあるのではないでしょうか。
しかしそういう人は実は呪われた人であると厳しく言われているのです。
それはまたイスラエルの民の信仰の形でもありました。
彼らは主なる神を礼拝することを捨てたわけではありませんでした。
彼らは主なる神と並んで偶像を拝んだのです。私たちは人を偶像神として拝むことはないかもしれませんが、信頼するよりどころという点で似たり寄ったりであります。
私たちの人生において、毎日私たちは決断を要求されます。その決断をなすとき、何を根拠にして決めていくのかが問題となります。決める根拠が不確かでは私たちの歩みもまた不確かなものになります。誤った道を行くことにもなりかねません。
私たちは皆、人生において信頼に足る確かな地図を必要としているのです。
その地図は聖書です。神の御言葉です。
御言葉に信頼し、それに従うことが大切です。もっと言えば、御言葉そのものであるイエス・キリストに信頼し、キリストに従うことです。
そのような人は8節にあるように実を結びことができるのです。
なぜなら彼は生ける水の源であるイエス・キリストに根ざして生きているからです。

2013年09月15日「御国を来たらせたまえ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ゼカリヤ書8章1~8節

説教要旨:
捕囚のイスラエルの民がカナンの地へ帰還してから20年ほどたったときに、預言者ゼカリヤが民に告げました。御国がやってくることを。
それはこの地上でのことです。広場に幼い子から高齢者までさまざまな人々が集い、笑い声で満たされるときが来るとの預言です。
当時のイスラエルはバビロニアによって破壊された神殿はまだ完成しておらず、国土も荒廃から立ち直っていない状態でした。人々は日々の生活に追われ、厳しい毎日を送っていたのです。
広場に憩うことはなかなかできない状態であったのです。
そんな中にあってゼカリアが告げた預言は民を励ますものでありました。
私たちは神の御国と聞くと、天国を思い浮かべてしまいがちにありますが、決してそうではないのです。
主が私たちに祈るように教えられた「主の祈り」において「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と私たちは祈ります。
それは御心がこの地上で実現することは主の願うところでもあることを示しています。
今日の箇所で御国の一つのイメージが描かれています。それは年齢差、世代を超えているということです。
ある特定の年齢層だけが御国の構成員ではないのです。
そしてそこは笑いの満ちるところです。誰もがそこに招かれ、誰もが孤独になることなく、疎外されることなくそこに楽しく居ることができるところです。
それは決して天においてだけ起こることではなく、この地上においても起こることが主の御旨です。
完全な形においては罪ある人間には無理ですが、そのような状態に近づけることは主が私たちに期待するところであります。私たちはそのような方向へと歩み出すとき、主は御助けを私たちに与え力添えしてくれます。この主の御力なしでは私たちには不可能です。ですから私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈ることが必要となるのです。主は祈りにこたえ、御国の前進をこの地上にあって図ってくださるのです。

2013年09月08日「一難去って、また一難」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:列王記上17章17~24節

説教要旨:
神の助けにより、やもめとその息子、また預言者エリヤは飢餓の危機から救われました。
しかしそのあと、より深刻な危機が訪れます。それはやもめの息子が重い病気にかかり、死んでしまうということが起こるのです。一難去って、また一難であります。
このようなことは私たちの人生においても起こります。一難がやっと去ったと思ったとたん、また新たな一難に襲われるということは多々あることです。やもめはそれに直面します。
やもめは息子の死を前にして、エリヤに「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。
あなたはわたしの罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と詰問します。
エリヤにとってぐさりと胸を刺す言葉です。やもめは、息子の死は自分が犯した罪ゆえに起こったと見ているのです。その罪を思い起こさせるために、エリヤが来たのかと、息子の死というやるせなさをエリヤにぶつけるのです。やもめは因果応報の考えに立っています。
エリヤはやもめの問いに直接的には答えていません。エリヤは因果応報の考えを断固として退けていません。また肯定もしていません。エリヤ自身がまだ因果応報の考えから解き放たれていないからではないのでしょうか。因果応報思想にまだ囚われているエリヤとそこから解き放たれたいという思いのエリヤが葛藤しています。
葛藤しつつ、エリヤは今息子が生き返ることをただ願うばかりです。
神は、息子を生き返らすということで、やもめを、またエリヤを因果応報の考えから解き放っていきます。
決して息子の死は、やもめが重い罪を犯したから起こったのではないのだという神からの宣言であります。
私たちは新約聖書において、決定的に因果応報が断ち切られていることを見ることができます。それはイエス・キリストにおいて現されました。
罪なき神の子イエス・キリストが十字架でなぜ死ななければならないのか。因果応報の考えでは、イエスが死に価する罪を犯したがゆえであるとなります。しかし神の子イエス・キリストは罪なき御方です。
その罪なき御方が十字架で死ぬということは因果応報の考えでは理解できないことであります。
十字架は因果応報思想を打ち破っているのです。人の苦難は人が犯した罪ゆえであるという因果応報思想に代わり、苦難にこそ、神の愛が現れるという逆説を十字架は示しているのです。

2013年09月01日「共に生かされるには」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:列王記上17章1~16節

説教要旨:
預言者エリヤは旱魃が来ることをアハブ王に告げます。
主は裁きをイスラエルに用意するのです。
なぜ裁こうと主はされるのでしょうか。それはイスラエルの偶像礼拝が原因です。
偶像礼拝の罪を旱魃というしるしを通して、悔い改めさすためであります。
しかし旱魃を預言するエリヤをアハブ王は悔い改めるどころか、迫害します。そこでエリヤは主の命じるとおりケリトの川のほとりに身を寄せることとなります。そこで烏がエリヤを養うこととなります。
もし烏に養われるなどということをエリヤが信じることができなかったなら、あとの出来事は起こらなかったかでしょう。エリヤは主の御言葉に素直に従うことで話は前進してまいります。
先へと前進する過程で、川の水が涸れるということが起こります。ここでエリヤが命の危機に陥ります。
主はエリヤの命を救うために、一人のやもめを用います。主は異邦人のやもめのところに行けと言われます。
エリヤは素直に主の言葉に従います。ここでももしエリヤが主の言葉に従わなかったなら、エリヤの命は危なくなっていたことでしょう。
やもめは夫をなくし、毎日困窮の中、息子と一緒に生活をしています。
そこにさらに旱魃による飢饉が襲うのであります。蓄えていた食べ物が日々なくなっていきます。命の糧が日々少なくなっていくのです。そしてついに最後の食事分しか残っていない状態になりました。
そんなところにエリヤが訪れます。
主はエリヤを通して、パンと油を尽きさせることはしないと約束されるのです。
その結果、やもめとその息子、エリヤは共に命を救われるということになるのです。
エリヤがもし主の言葉に従がわなければ、異邦人のやもめとその息子の命、またエリヤの命も失われていたことでしょう。
エリヤが主の言葉に従ったがゆえに、3人は共に命を救われたのです。
主の御言葉こそが私たちの命の支えであります。私たちが共に生かされるために、私たちは主の御言葉を必要としております。
そして私たちが主の御言葉に従う時、主は偉大な御業を現されるということを今日の聖書の箇所から学びたい。