2013年09月01日「共に生かされるには」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:列王記上17章1~16節

説教要旨:
預言者エリヤは旱魃が来ることをアハブ王に告げます。
主は裁きをイスラエルに用意するのです。
なぜ裁こうと主はされるのでしょうか。それはイスラエルの偶像礼拝が原因です。
偶像礼拝の罪を旱魃というしるしを通して、悔い改めさすためであります。
しかし旱魃を預言するエリヤをアハブ王は悔い改めるどころか、迫害します。そこでエリヤは主の命じるとおりケリトの川のほとりに身を寄せることとなります。そこで烏がエリヤを養うこととなります。
もし烏に養われるなどということをエリヤが信じることができなかったなら、あとの出来事は起こらなかったかでしょう。エリヤは主の御言葉に素直に従うことで話は前進してまいります。
先へと前進する過程で、川の水が涸れるということが起こります。ここでエリヤが命の危機に陥ります。
主はエリヤの命を救うために、一人のやもめを用います。主は異邦人のやもめのところに行けと言われます。
エリヤは素直に主の言葉に従います。ここでももしエリヤが主の言葉に従わなかったなら、エリヤの命は危なくなっていたことでしょう。
やもめは夫をなくし、毎日困窮の中、息子と一緒に生活をしています。
そこにさらに旱魃による飢饉が襲うのであります。蓄えていた食べ物が日々なくなっていきます。命の糧が日々少なくなっていくのです。そしてついに最後の食事分しか残っていない状態になりました。
そんなところにエリヤが訪れます。
主はエリヤを通して、パンと油を尽きさせることはしないと約束されるのです。
その結果、やもめとその息子、エリヤは共に命を救われるということになるのです。
エリヤがもし主の言葉に従がわなければ、異邦人のやもめとその息子の命、またエリヤの命も失われていたことでしょう。
エリヤが主の言葉に従ったがゆえに、3人は共に命を救われたのです。
主の御言葉こそが私たちの命の支えであります。私たちが共に生かされるために、私たちは主の御言葉を必要としております。
そして私たちが主の御言葉に従う時、主は偉大な御業を現されるということを今日の聖書の箇所から学びたい。