2013年07月28日「キリストの香り」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二、2章12~17節

説教要旨:
12節「不安の心を抱いたまま」とパウロは心情を吐露しています。
パウロもまた私たち同様に不安を抱くことがあったということは慰めであります。
神さまにすべてをゆだねれば、不安はなくなるのではないのかと思いますが、現実的にはそうはならないのが私たちではないでしょうか。パウロもまたそうでありました。
ただここでのパウロの不安は、福音に関わること、教会に関わることでの不安であります。
パウロが説いた福音とは違うものに心を奪われ、パウロを批判をしているコリントの教会の人たちがテトスの来訪によって、悔い改め、和解をすることをパウロは願っているのですが、本当に悔い改めるのだろうかと不安で一杯なのがパウロであります。
しかしその不安も消え去ります。コリントの教会の人たちが悔い改めたのです。
パウロはそれをキリストの勝利と言います。パウロの勝利でもなければ、テトスの勝利でもありません。
神が勝利されたのです。神の勝利であるから、キリストの香りとなるのです。
私たちは神によって造られたということにおいて、皆キリストの香りを放つように期待されています。
しかしそれにもかかわらず神に背き、神に逆らうことで死から死に至る香りを放ってしまうことになるのです。
また勝利を自分の手柄にようにして誇るなら、それはキリストの香りとはなっていきません。
パウロはコリントの信徒への手紙一、1章23節で「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」と申しています。
要するにパウロにとって、キリストの香りを放つとは、自分を売り込むことではなく十字架につけられたキリストの宣教のことであります。キリストを宣べ伝えるからキリストの勝利もあり、キリストの良い香りも放たれるのです。

2013年07月21日「主を誇りとする」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙10章7~18節

説教要旨:
パウロは7節で「あなたがたは、うわべのことだけを見ています」と言っています。
うわべだけでパウロを見る人がコリントの教会の中にはいたのです。
その結果パウロ批判が起こったのです。その批判に対してパウロは批判者を打ち倒す、抹殺するということではなく、造り上げるという方向で臨みます。
どのように造り上げるのでしょうか。それは「主を誇る」信仰者として造り上げるということです。
主を誇ることのない信仰は罪人としての自分を相対化することができず、自己義認、自己絶対化という罪を犯すことになります。
主から自分がどう見られているかが信仰において重要なのであり、自分による自己評価、自分による他者評価に囚われている限り、主を誇るという信仰は生まれないのです。
主を誇るということは主を中心にして生きるということを意味します。
誇るものが主ではなく、他のものであるとき、主を中心にして生きる信仰とはなりません。
主を中心にして生きているのか、それとも自分を中心にして生きているのか、パウロはコリントの教会の人たちだけでなく、私たちにも問いかけているのです。

2013年07月14日「イエスの命」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙4章7~18節

説教要旨:
10節でパウロは「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」と言っています。これはイエスの十字架の死がパウロの生きる根拠であり、その死によってパウロは新しい命を与えられたということを言っているのです。新しい命とは復活のイエス・キリストの命であります。
パウロのうちには復活のキリストの命が働いているということです。
そのパウロのうちにあるキリストの復活の命が他者にも働いて、他者を生かすという働きになっていくということを11節の言葉「わたしたちの内には死が働き、あなたがたのうちには命が働いていることになります」で言い表しているのです。キリストの命はパウロ一人のところにだけに働くのではなく、パウロを経て多くの人を生かすように働くのです。
つまりパウロがキリストの福音、十字架を語ることで、福音を信じ、受け入れる人が起こされ、その人のうちにキリストの命が働いていく。
そのようにしてキリストの命に皆結ばれていくのです。
でもキリストの命に結ばれても、私たちは皆いつかは肉体の死を迎えます。「外なる人」は衰え、滅びるのです。
しかし「内なる人」、つまり「キリストの命に生かされている者」は日々新たにされていくのです。
私たちの肉体を生かす細胞は肉体の死とともに死を迎えます。しかし私たちの魂を生かすキリストの命は
日々私たちを新たに造りかえていくのです。その過程のゴールには永遠の命の完成が待ち受けているのです。
その造りかえられる姿は私たちの目には見えません。見えないけれども、復活され、今も生きて働いているキリストの命がそうしているのであるから、必ずそれは成就の時、完成の時を迎えるのです。

2013年07月07日「まことの平安」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書44章6~23節

説教要旨:
22節「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」と言われています。
「贖った」と過去形で訳されていますが、実際には未来におけるキリストの贖いのことも含め言っているのです。イスラエルの民はバビロン捕囚において偶像礼拝という過去の罪を悔い改めました。
偶像礼拝ゆえに国が滅んでしまったことを悔いました。そのことを神は良しとされ、罪は贖われたのです。
しかし、それで故郷であるカナンの地に帰れば、平安を得ることができるかとなると、そうではないのです。その後のイスラエルの歴史を見れば、そのことはいえます。
彼らはまことの平安を得ることはできなかったのです。
イザヤが言う「わたしはあなたを贖った」という深い意味はキリストにあります。
私たちはこの地上のいかなる地においても、平安を得ることはできないのです。
どんなに素晴らしい故郷であったとしても、そこに真の平安はありません。
ましてや偶像などにはありません。イスラエルの過去の歴史は偶像礼拝の歴史でもあります。
民は偶像にまやかしの平安を見出していました。でもそこには心からの平安はありませんでした。
神はイザヤを通してまことの平安の道を示します。それはキリストです。
私たちはキリストにこそ平安を見出すべきであるのです。
キリストが私たちのすべての罪を贖う御方であるからです。
私たちの不安の根源には神との関係があります。神との関係が不和であるとき、私たちは平安を得ることはできません。言い換えれば罪があるとき、平安がないのです。
私たちと神とを隔てる罪が神との和解を邪魔しているのです。この罪が贖われなければ、処分されなければ、処分され神との和解が果たされなければ、私たちには平安は訪れないのです。その罪を贖う御方、和解させる御方がイエス・キリストであるのです。
私たちはこのイエス・キリストを通してしか本当の平安を得ることはできないのです。