2012年11月25日「神の国での収穫」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書20章1~16節

説教要旨:
今日のイエスの譬え話には、この世の経済では考えられないことが言われています。
長い時間働いた者にも、短い時間働いた者にも同じ一デナリオンが支払われるというものです。
この世においては、長く働いた者には短い時間働いた者よりも多くの賃金が支払われるのが普通です。
ですからこの譬えにおける支払いは、この世においては現実的な賃金の支払いとは言いがたいものです。
イエスはこの譬えを通して、天の国においては、この世の業績や功績によって永遠の命が与えられるのではなく、ただ神の一方的な恵みによって与えられるものであることを語ろうとしているのです。私たちは天の国において皆等しく神が実らせてくださった永遠の命の実を収穫するのです。そこに格差はありません。
私たちが、イエスのこの譬え話は浮世離れしており、この世とは全く関係ないこととして考えるなら、それはまたイエスの意志とはかけ離れたものとなります。
主の祈りにおいて私たちは「御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。
祈りにあるごとく、天のことと地のことを全く切り離して考えることはできないのです。
イエスの譬え話は、当時の人々の日常的な生活が背景にあるといわれます。
午後5時になってもまだ仕事がない人がいたという社会的背景があります。それほどに失業者は世には多くいたということです。
5時になってもまだ仕事のない人は好き好んで仕事にありつけないのではないのです。
大体からだの強そうな者から主人は雇っていきます。5時まで残ってしまう人というのは、農作業する上で効率の悪い人たちです。それはからだの弱い人たちといえるのではないでしょうか。
からだの強い人には多くの賃金、弱い人には少ない賃金というのが神のみこころなのでしょうか。
いや違います。主人は言います。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と。
神は同じ神の民の間にある格差を望まれておられません。
今日社会には格差があり、それが拡がっているといわれています。
そのような状況を私たちは見過ごしてもいいのでしょうか。
みこころが地でもなるようにと祈りつつ、今日の格差社会に対処していきたい。

2012年11月18日「生ける命の水」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書4章1~18節

説教要旨:
今日の聖書の箇所にはサマリアの女が登場しています。
彼女にはかつて5人の夫がいたことが分かります。しかしすべて離婚しています。なぜなのでしょうか。ふしだらな女だからなのでしょうか。
違います。彼女の結婚に求めるものが間違っていたからであります。
彼女は自分の利益、自分だけの満足を求めて結婚したのです。
そのような求めで結婚すれば、破綻をきたすことは目に見えています。
そんな女とイエスはヤコブの井戸で出会います。
イエスは女の問題の在り処をすぐに見抜かれます。
女がこれまで通りの生き方を続けるなら、何度結婚したって離婚することを見抜いています。
だから決して渇くことのない水を与えるといわれるのです。
彼女の求める水は自分のためという水であり、他者のためという観点が欠落しています。
自分のためということで、自己消費されて終わりです。水を共有していく、分かち合うという観点がないのです。
ゆえに、一時的に渇きは潤せても、すぐに渇くのです。渇いて、また次の夫を渇きを潤すために求めるのです。
イエスが与えようとされておられる水は、自分だけでなく、他者をも生かす水でありますから、いつまでも渇くことがないのです。自分のところから溢れ出て他者へと流れていく水であります。
自分だけでなく、他者をも生かす水こそがいつまでも渇くことのない水であるのです。
そしてそのような水こそがイエス・キリストです。キリストという生ける命の水をいただくことで私たちは永遠の命へと導かれるのです。

2012年11月11日「神の子供」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章12~17節

説教要旨:
14,15節で「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れるではなく、神の子とする霊を受けたのです」と言われています。
神の子とは本来イエス・キリストだけであります。それが罪深い私たちも神の子とされるということがあるのです。それは聖霊によると言われるのです。神以外にそれはできないということです。
でも神はそのことを私たちに何の代価もなしになそうとされたのではないのです。私たちが神の子とされるために尊い神の独り子イエス・キリストの十字架という代価が払われたのです。
本来なら私たちは肉(自我)の働きによって滅びへと向かっても仕方ない者でありました。それがキリストの十字架によって命へと移しかえられたのです。
では命の道を歩むことのしるしは何でしょうか。それが私たちが「アッバ、父よ」と呼ぶことにあるとパウロは言います。「アッバ」は幼子が父を呼ぶときの言葉であります。
信頼と愛に満ちて父を呼ぶのです。
パウロが「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」と言っているのは、具体的には律法の奴隷へと導く悪霊のことであります。悪霊は私たちを律法に支配される奴隷状態へと向かわしめます。
律法にはそれに違反したときの罰則があります。律法に従う罰則が恐ろしいから、何が何でも律法を守ろうとする生き方が生まれます。それは律法の奴隷として生きる道であります。
その道から私たちを聖霊は自由にし、神の子とします。その神の子の道は、神をアッバと呼ぶことにおいて、現れています。もはや律法を守らない者を厳しく罰する怖い厳格な父なる神ではなく、御子をさえ私たちの救いのために十字架に惜しまず与えてくれる愛と憐れみに満ちた父なる神となっているのです。

2012年11月04日「主の愛から」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章31~39節

説教要旨:
パウロは実に多くの苦難を経験しました。「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」(35節)など記されています。
しかしそれらのものがキリストの愛から引き離すことはできないと言っています。
パウロは幾多の苦難の中にあっても、神の愛を信じていました。
信じるがゆえに、苦難の中にあっても、喜びがありました。
大体、私たちは苦難の中にあるとき、なかなか喜べない者です。
苦難が去ってから、喜ぶ者です。しかしキリスト者の喜びは苦難の中にあっても起こるのです。
私たちが苦難を負っているとき、その苦難はキリストの十字架の苦難に結びつけられています。
キリストの十字架の御手に結ばれているのです。苦難にあるとき、決して御手から離れているのではないのです。
むしろ苦難が激しければ激しいほど、キリストの御手は私たちを強く捉えるのです。
私たちの負える苦難を共有してくださるのです。
ですからキリストに強く結ばれている喜びが苦難の中にあってもあるのです。
それほどに十字架で示された神の愛は強く私たちを捉えます。
どのようなものもその愛から私たちを引き離すことはできないほどに強いとパウロは言うのです。
このキリストに結ばれた神の愛は私たちが苦難にあるとき、大いなる慰めとなります。
慰めとなるだけでなく、大いなる希望を抱かせます。
十字架の苦難は復活へと繋がるからです。永遠の命へと繋がるからです。
パウロは死さえも神の愛から引き離すことはできないと言っています。
そうです。私たちには永遠の命が約束されています。苦難の人生ですべてが終わるのではありません。
キリストの御手にしっかりと結ばれるとき、その御手は苦難から永遠の命へと導いてくださるのです。
そのキリストの御手と結ばれた愛の絆を誰も断ち切ることはできないのです。