2012年12月23日「行くべき道の選択」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書2章1~12節

説教要旨:
私たちは、人生において行くべき道を指し示めしてくれるものがあればいいのになあ、と思います。
この世には占いはじめ様々なものが道を指し示していきます。
しかし100パーセント確かなものがないのが現実ですが、聖書は確かな一人の方を指し示しております。
それがイエス・キリストです。この人を見よと聖書は語っています。
イエス・キリストが私たちの行くべき本当の道を指し示してくれるのです。
今日の箇所に登場している星占いの学者たちは星占いによって行くべき道を推察していました。
それはまことにあてのならない道でありました。しかし今回この学者たちをある星が導くことになります。
その星は幼子イエス・キリストへと導くことになります。
学者たちは幼子イエス・キリストにひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を献げたのであります。
彼らが故郷へ帰ろうとすると「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがありました。
ヘロデのところへ帰るなとは、ヘロデ王に代表されるこの世の道の危うさ、つまり自分の地位を脅かすものを抹殺しようとする企みに加担するなということです。
それはまた自分たちの身をも危険にさらすことでありました。彼らはメシア誕生の場所を知っているがゆえに、ヘロデ王は何が何でも彼らからその場所を聞きたかったからです。それを知らせずに故郷に帰るということは危険なことでありました。にもかかわらず彼らはヘロデ王のところには行かず、別の道を帰っていったのです。
彼らは躊躇せずに別の道を選択しました。イエス・キリストに出会った者はただ神が指し示す道を行くのみです。他に行くべき道はないのです。神の道こそが私たちが真に行くべき確かな道であるのです。

2012年12月16日「来るべき救い主」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書9章1~6節

説教要旨:
今日の箇所はメシア(救い主)預言と言われている箇所です。来るべきメシアはどのような御方であるかを告げています。
5節では「ひとりのみどり子が私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた」と預言されています。
預言が過去形をとっているのですが、それは神の約束は必ず実現するゆえに、それは未来において起こる出来事であっても、すでに起こったこととして言われるのです。
それは「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と言われているように、メシアを私たちに与えてくださることは神の熱意からです。神はこのままでは私たちは滅んでしまうと思い、私たちを救わんとしてメシアを与えてくださるのです。
そのメシアは「驚くべき指導者」と言われています。英語ではカウンセラーと訳されています。
ここにメシアの姿が映し出されます。独裁的な指導者ではないということです。相談相手となってくれるような指導者です。独裁者はそうはいきません。相談した結果、機嫌を損なわれてはどうしようもありません。
命を取られるかもしれません。そういう指導者ではないのです。また世間で言われるカウンセラーでもありません。
指導者ですから、相談に乗った人の行くべき道を示してくださる御方です。神は私たちのことすべてをよくご存知ですから行くべき正しい道を示してくれるのです。
さらに力ある神であり、平和の君であるといわれています。
力あるとはどういう力でしょうか。軍事的な力でしょうか。暴力的な力でしょうか。そうではありません。
愛の力です。愛において神は力ある御方であるのです。神は愛をもって敵対する者を克服し、その者との平和を作り出すのです。
イエスは「汝の敵を愛しなさい」と山上の説教でいわれました。
しかしイスラエルの民は、このメシア預言を軍事的な力あるメシアとして受け取りました。
軍事力によって敵を圧倒し、打ち負かし、勝利を収めることで相手との平和を実現するメシアを期待したのです。
ゆえに主イエス・キリストに、また主の十字架につまづいたのです。
私たちは待降節の歩みにおいてどのようなメシアを待つのでしょうか。

2012年12月09日「キリストを身にまとう」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙13章11~14節

説教要旨:
11節で「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と言われています。
人それぞれに時の感じ方は違いますが、クリスチャンにとって共通する時の感じ方があります。
そのことをパウロは言っているのです。
それはどんな時であるのか。つまりキリストの降誕とキリストの再臨のときの中間時であるということです。
世はいろいろと今の時を定義しますが、それは究極的なものではありません。どれも正しいとは言えないものです。
誰にも共通する時が中間時であるということです。
さらにこの中間時においてキリストの再臨は近づいているということです。
「夜は更け、日は近づいた」(12節)のです。ですから私たちは目を覚まさねばならないのです。
目を覚ましてどうするのか。それはキリストを身にまとうのです。闇のわざ(酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ)を脱ぎ捨て、光の武具としてのキリストを着ることです。
キリストを身にまとうとき、私たちはキリストの品性をいただくのです。
キリストの品性ゆえに品位ある歩みとなるのです。
世の品位は上品であるとか高貴であるとかというイメージですが、クリスチャンの品位は、キリストを身にまとうことで得られるものなのです。
私たちはキリストの再臨のときまで、キリストを身にまとうものでありたい。

2012年12月02日「刈り入れの時まで」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書13章24~33節

説教要旨:
今日の聖書の箇所では、3つのたとえが話されています。
いずれも神の国のたとえであります。
神の国とは、神の支配のことであります。神の御心が支配し、実現しているところすべて神の国であります。
その神の国はイエス・キリストの到来とともに始まりました。
そして今そのイエスの始められた神の国は成長しつつあります。
その成長において神は私たち人間を用いようとされます。
私たちが神によって用いられ、御国のために働くとき、神は御国を前進させられます。
しかしその一方でそれを妨げようとする力も働きます。
それが毒麦ということで言い表されています。
イエスは「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言われます。これは神の国が成長する過程で、毒麦が入り込んで来るとき、その毒麦をすぐに抜くなという意味です。つまり人間の力ですぐにどうこうしようとするなと言うことです。
神にゆだねよということです。神がその反抗する力の処理をするというのです。
キリストの再臨のときまでに処理仕切れないものは、再臨のときの最後の審判において最終的に処理されるから、心配するなと言われているのです。
ここにはどんな悪人であっても、その悪人が悔い改めて神に立ち帰ることが神の御心であることが示されています。人間の側の判断で、悪人だからすぐに処理し、抜き取ろうとするのではなく、悪人が悔い改め、救いに入れられることを待てと言われているのです。
救いに入れる入れないは神が決めることです。しかし私たちは神が決める前に、神の御心とはどういうものであるかを宣べ伝えることが必要です。
つまり福音を宣べ伝えることです。その結果は神が負われます。
キリストが再臨されるときまで、私たちは「主よ、御国を来たらせたまえ」と祈りつつ、キリストの福音の種まきをしていこうではありませんか。
神が大きく実らせてくださることを信じて。

2012年11月25日「神の国での収穫」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書20章1~16節

説教要旨:
今日のイエスの譬え話には、この世の経済では考えられないことが言われています。
長い時間働いた者にも、短い時間働いた者にも同じ一デナリオンが支払われるというものです。
この世においては、長く働いた者には短い時間働いた者よりも多くの賃金が支払われるのが普通です。
ですからこの譬えにおける支払いは、この世においては現実的な賃金の支払いとは言いがたいものです。
イエスはこの譬えを通して、天の国においては、この世の業績や功績によって永遠の命が与えられるのではなく、ただ神の一方的な恵みによって与えられるものであることを語ろうとしているのです。私たちは天の国において皆等しく神が実らせてくださった永遠の命の実を収穫するのです。そこに格差はありません。
私たちが、イエスのこの譬え話は浮世離れしており、この世とは全く関係ないこととして考えるなら、それはまたイエスの意志とはかけ離れたものとなります。
主の祈りにおいて私たちは「御国をきたらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。
祈りにあるごとく、天のことと地のことを全く切り離して考えることはできないのです。
イエスの譬え話は、当時の人々の日常的な生活が背景にあるといわれます。
午後5時になってもまだ仕事がない人がいたという社会的背景があります。それほどに失業者は世には多くいたということです。
5時になってもまだ仕事のない人は好き好んで仕事にありつけないのではないのです。
大体からだの強そうな者から主人は雇っていきます。5時まで残ってしまう人というのは、農作業する上で効率の悪い人たちです。それはからだの弱い人たちといえるのではないでしょうか。
からだの強い人には多くの賃金、弱い人には少ない賃金というのが神のみこころなのでしょうか。
いや違います。主人は言います。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と。
神は同じ神の民の間にある格差を望まれておられません。
今日社会には格差があり、それが拡がっているといわれています。
そのような状況を私たちは見過ごしてもいいのでしょうか。
みこころが地でもなるようにと祈りつつ、今日の格差社会に対処していきたい。

2012年11月18日「生ける命の水」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書4章1~18節

説教要旨:
今日の聖書の箇所にはサマリアの女が登場しています。
彼女にはかつて5人の夫がいたことが分かります。しかしすべて離婚しています。なぜなのでしょうか。ふしだらな女だからなのでしょうか。
違います。彼女の結婚に求めるものが間違っていたからであります。
彼女は自分の利益、自分だけの満足を求めて結婚したのです。
そのような求めで結婚すれば、破綻をきたすことは目に見えています。
そんな女とイエスはヤコブの井戸で出会います。
イエスは女の問題の在り処をすぐに見抜かれます。
女がこれまで通りの生き方を続けるなら、何度結婚したって離婚することを見抜いています。
だから決して渇くことのない水を与えるといわれるのです。
彼女の求める水は自分のためという水であり、他者のためという観点が欠落しています。
自分のためということで、自己消費されて終わりです。水を共有していく、分かち合うという観点がないのです。
ゆえに、一時的に渇きは潤せても、すぐに渇くのです。渇いて、また次の夫を渇きを潤すために求めるのです。
イエスが与えようとされておられる水は、自分だけでなく、他者をも生かす水でありますから、いつまでも渇くことがないのです。自分のところから溢れ出て他者へと流れていく水であります。
自分だけでなく、他者をも生かす水こそがいつまでも渇くことのない水であるのです。
そしてそのような水こそがイエス・キリストです。キリストという生ける命の水をいただくことで私たちは永遠の命へと導かれるのです。

2012年11月11日「神の子供」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章12~17節

説教要旨:
14,15節で「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れるではなく、神の子とする霊を受けたのです」と言われています。
神の子とは本来イエス・キリストだけであります。それが罪深い私たちも神の子とされるということがあるのです。それは聖霊によると言われるのです。神以外にそれはできないということです。
でも神はそのことを私たちに何の代価もなしになそうとされたのではないのです。私たちが神の子とされるために尊い神の独り子イエス・キリストの十字架という代価が払われたのです。
本来なら私たちは肉(自我)の働きによって滅びへと向かっても仕方ない者でありました。それがキリストの十字架によって命へと移しかえられたのです。
では命の道を歩むことのしるしは何でしょうか。それが私たちが「アッバ、父よ」と呼ぶことにあるとパウロは言います。「アッバ」は幼子が父を呼ぶときの言葉であります。
信頼と愛に満ちて父を呼ぶのです。
パウロが「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」と言っているのは、具体的には律法の奴隷へと導く悪霊のことであります。悪霊は私たちを律法に支配される奴隷状態へと向かわしめます。
律法にはそれに違反したときの罰則があります。律法に従う罰則が恐ろしいから、何が何でも律法を守ろうとする生き方が生まれます。それは律法の奴隷として生きる道であります。
その道から私たちを聖霊は自由にし、神の子とします。その神の子の道は、神をアッバと呼ぶことにおいて、現れています。もはや律法を守らない者を厳しく罰する怖い厳格な父なる神ではなく、御子をさえ私たちの救いのために十字架に惜しまず与えてくれる愛と憐れみに満ちた父なる神となっているのです。

2012年11月04日「主の愛から」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章31~39節

説教要旨:
パウロは実に多くの苦難を経験しました。「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」(35節)など記されています。
しかしそれらのものがキリストの愛から引き離すことはできないと言っています。
パウロは幾多の苦難の中にあっても、神の愛を信じていました。
信じるがゆえに、苦難の中にあっても、喜びがありました。
大体、私たちは苦難の中にあるとき、なかなか喜べない者です。
苦難が去ってから、喜ぶ者です。しかしキリスト者の喜びは苦難の中にあっても起こるのです。
私たちが苦難を負っているとき、その苦難はキリストの十字架の苦難に結びつけられています。
キリストの十字架の御手に結ばれているのです。苦難にあるとき、決して御手から離れているのではないのです。
むしろ苦難が激しければ激しいほど、キリストの御手は私たちを強く捉えるのです。
私たちの負える苦難を共有してくださるのです。
ですからキリストに強く結ばれている喜びが苦難の中にあってもあるのです。
それほどに十字架で示された神の愛は強く私たちを捉えます。
どのようなものもその愛から私たちを引き離すことはできないほどに強いとパウロは言うのです。
このキリストに結ばれた神の愛は私たちが苦難にあるとき、大いなる慰めとなります。
慰めとなるだけでなく、大いなる希望を抱かせます。
十字架の苦難は復活へと繋がるからです。永遠の命へと繋がるからです。
パウロは死さえも神の愛から引き離すことはできないと言っています。
そうです。私たちには永遠の命が約束されています。苦難の人生ですべてが終わるのではありません。
キリストの御手にしっかりと結ばれるとき、その御手は苦難から永遠の命へと導いてくださるのです。
そのキリストの御手と結ばれた愛の絆を誰も断ち切ることはできないのです。

2012年10月21日「主の御翼のもとに」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルツ記2章1~23節

説教要旨:
姑のナオミと嫁のルツはベツレヘムへと帰ってきましたが、生活は苦しいものでした。
ですからルツは落穂拾いをすることを決意します。それによってなんとか食べることを確保しようとしました。
律法において他人の畑での落穂拾いは罪にはなりませんでした。律法では認められていた行為でありました。
そしてその落穂拾いをする畑がやがて結婚することになるボアズの畑であったのです。
聖書は、ボアズの畑にルツが出かけたのは「たまたま」のことであったと記しています。
でもこの「たまたま」がボアズとルツの未来を決めることになります。
人間には偶然と思われることも、神においては必然であることがあります。
ボアズとルツの出会いもそうであります。出会うべくして二人は出会ったのです。
私たちの人生において偶然の出来事と思われることも、実はその背後に神が働いておられることがあります。1章でのナオミのベツレヘムへの帰郷もそうであります。
ナオミは自分で決断して故郷に帰ることになったように思われますが、帰る決断の背後には、神が働いています。ボアズはそのことを知っています。12節「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに」と語っています。主の御翼のもとにあってベツレヘムへの帰郷が導かれ、守れてきたことをボアズは知っているのです。ですからボアズはルツに厚意を示すのです。
主がルツに働いているゆえに示さざるを得ないのです。神の働きは帰郷の時点で終わっていないこと
もボアズには分かっていたのです。
ナオミとルツを主の御翼のもと導く神は私たちの神でもあります。
私たちの人生は偶然においてではなく、また自分の決断においてでもなく、
この神の御翼のもと導かれていることを覚えたいと思います。

2012年10月14日「喪失の中での希望」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルツ記1章1~22節

説教要旨:
ルツ記1章にはナオミとルツという姑と嫁の関係にある人物が登場しています。
ナオミは飢饉がベツレヘムを襲ったので、夫と息子二人と一緒に飢饉を逃れてモアブの地へと移ります。
モアブは異国の地でした。そこで夫がなくなりますが、その後息子たちはモアブの女と結婚します。
その一人の妻がルツでありました。しかしその結婚した息子たちもなくなります。
ナオミは一人残されることになります。
異国のモアブの地で生きていくことに困難を極めるナオミでありましたが、飢饉が去ったということを聞きます。
これがきっかけとなり、ナオミは二人の嫁を伴ってベツレヘムに帰ることを決断します。
その帰郷の道中において、ナオミは二人の嫁にモアブに戻った方がいいと進言します。
一人はその進言を受け入れ、戻ります。だがルツはそうはしなかったのです。
ナオミとあくまで一緒にベツレヘムに帰ることに固執したのです。
「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」(16節)というほど、ナオミとの一体性を主張するのです。ルツの決意に負け、同行をゆるすのです。
ナオミは夫と二人の息子をなくした喪失感に打ちひしがれています。
激しい喪失感のまま故郷のベツレヘムに入ります。同行のルツはナオミの喪失感を癒す存在とは、まだなっていません。むしろルツを見ることで息子を思い出してしまい、喪失感を深く覚えさせる存在でもあります。
ナオミにとってベツレヘムを出てきた状態とはまるっきり正反対の立場での帰郷であります。
出てくる前は、飢饉ということで物質的には欠乏状態にありましたが、精神的には夫と息子という生きがいを与えられていました。しかし今やそれが失われ、うつろな帰郷となったのです。
ナオミは身に起こったことを嘆きます。神に恨み辛みを言っています。
しかしそこには主の顧みへの希望があります。全くナオミは信仰を失っているわけではありません。
恨み辛みをいうことは、神を認めているから言えることであります。
ナオミはその段階の信仰にとどまってはいませんでした。神は私たちを必ず顧みてくださる御方であることを信じていました。ゆえに飢饉が終わったとの知らせは何よりも主が顧みてくださっておられることのしるしだと見ました。寡婦ゆえに故郷においても生活の困難は当然予想されます。しかしあえて故郷へと帰っていったのです。
ある意味で賭けといっていい決断でした。
失われた者を顧みてくださる神への信仰が、また希望がナオミをモアブからベツレヘムへと押し出したのです。

2012年10月07日「主はすべての罪を贖われる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編130編

説教要旨:
詩人は深い淵の底に沈んでいるような絶望的状態に陥っています。それは何か大きな罪を詩人は犯したからであります。自分で罪を贖う力はありません。
自力でいかんともしがたい状態であります。深い淵から引き上げてくれる人は誰もいないのです。
しかし詩人には最後の救いの道が残っていました。それは神です。罪を贖い、赦してくれる神です。
その神を求めたのでした。
神はその求めに応え、助けくださいます。その神がイエス・キリストの十字架において現れたのです。
神は裁きだけの神ではなく、赦しの神であることが十字架において示されたのです。
もし神が裁きだけの神であるなら、私たちの未来はまことに暗いものであります。
私たちの未来は閉じたものとなるでしょう。なぜなら私たちは、犯した罪に対して死刑宣告を受けてもおかしくない者であるからです。しかし赦しの神が私たちを待っているなら、いや赦しの神が私たちのところへ、神の方からやってくるなら、私たちの未来は明るいものがあります。
罪の裁きをイエス・キリストが十字架ですべて引き受けてくださったことで、私たちはすべての罪贖われ、赦されて前へと、未来へと向かうことが赦されているからです。
この恵みを無駄にすることなく、私たちは前に向かって歩んでいきたい。

2012年09月30日「希望の源泉」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ペトロの手紙一、1章3~9節

説教要旨:
今日の聖書の箇所3節には「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」とあります。
いわゆる新生のことがいわれています。具体的には洗礼のときに起こることです。
洗礼において聖霊が注がれ、キリストの十字架と復活の命によって私たちは新たに生まれるのです。
言い換えれば、私たちは十字架に古い自分をつけて、死に、そしてキリストの復活の命を生きるものとされるのです。それは永遠の命へとつながる命であります。
キリストの復活の命を生きるものは、「天に蓄えられている財産を受け継ぐ者」(4節)とされていると言われています。
この地ではなく、天にであります。その財産とは神の永遠の御国であり、永遠の命です。
それは朽ちず、汚れず、しぼまないものであります。この地の財産はいつか朽ち、汚れ、しぼんでしまうものであります。
そんなものに私たちは希望を置くことはできません。
私たち人間の希望は失望に終わることが多いものです。しかし神の希望はそうではありません。
神が希望されておられるなら、それは必ず成就します。神は私たちが永遠の命と御国を授かることを望まれておられます。また約束されておられます。だから私たちは儚い希望ではなく、確かな希望を抱くことができるのです。
さらにキリストが与える希望は試練にあって力を発揮します。私たちは人生において数々の試練に遭わねばなりません。
そこで悩みます。しかしその悩みは信仰にとって重要なものです。それは私たちの信仰を深め、強める過程における重要な要素となるからであります。そして試練を耐え忍んだ暁にはヤコブの手紙で言われているように「試練を耐え忍ぶ人は幸いである。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただく」(1章12節)のであります。
私たちは試練に遭うとき、一人で悩み、耐え忍ぶのではありません。イエス・キリストが共に悩み、試練を耐え忍んでくださるのです。
私たちはキリストに支えられて、試練に打ち勝つことができるのです。そして御国へと確かに導かれるのです。
キリストなしには私たちは試練に脆く、弱い者であります。キリストは目には見えませんが、確かに聖霊において私たちの内にお住まいになっておられます。内におられるキリストを実感すると、喜びが溢れます。
試練に打ち勝つ希望が湧いてくるのです。

2012年09月23日「キリストの平安」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書14章15~31節

説教要旨:

今日の聖書の箇所27節で主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われています。
世が与える平和は、必ずしも本当の平和であるとは限りません。特に旧約聖書の時代における偽預言者は、国の危機の中にあっても、平和を説きました。本当の預言者は、危機の中にあって、民に悔い改めを迫り、神への立ち帰りを説かねばなりません。しかし偽預言者は、そうはせず、民が聞き入れやすい安易な平和を説いたのです。
結果は国の滅亡でありました。そのように世が与える平和というものは、うその平和が多いのです。
私たちは本当の平和の言葉を神から聞かねばなりません。
ではどのようにして聞くのでしょうか。それは聖霊を通してであります。
今日の箇所で、主イエスは、復活後父のもとへ昇天したあとに聖霊を送ることを約束されました。
それは私たちをみなしごとしないためでありました。私たちはこの地上にあって、イエス・キリストを聖霊において知ることができるのです。またキリストの御心を知ることができるのです。今どのような状態にあるかを知ることができ、その状態を変えるべきであるなら、キリストが働いてくださり、変える力を私たちに与えてくださるのです。
さらにキリストが聖霊において内住することで私たちは平和を与えられます。
キリストなしには真の平和は訪れません。なぜなら私たちと神との関係が和解されねばならないからです。
私たちは罪を犯すことにおいて、神とは正しい関係に立っていません。いつも罪が介在して神との和解を妨げているのです。私たちが神と和解するには、罪が贖われる必要があります。私たちに真の平和がないのは私たちの造り主である神との和解がなされていないところにあります。
キリストはその和解のわざを十字架において果たされました。十字架によって私たちの罪がすべて贖われ、私たちは神との和解ができるのです。この神との和解のわざは他の誰も果たすことはできません。神の御子イエス・キリストだけがおできになるのです。その十字架の主イエス・キリストが私たちの内に聖霊において臨在することで、私たちは真の平和を得ることができるのです。

2012年09月16日「誰に対しても」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィレモンへの手紙8~22節

説教要旨:
パウロは奴隷のオネシモを回心へと導きました。そこには福音の力が働いていますが、パウロの姿勢も関係しています。パウロは奴隷オネシモに対してまことにすごいことを言っています。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(10節)、「わたしの心であるオネシモ」(12節)、「奴隷以上の者、つまり愛する兄弟」(16節)、さらには「オネシモをわたしと思って」(17節)など、当時の社会にあって奴隷に対して言えるような言葉ではないのです。
それをパウロは言っているということは、パウロは自分をオネシモよりも低いところに置いたから言えたことであります。決して上から目線で福音をパウロは説いているのではないのです。
パウロは自身を「罪人の頭」と表現しています。頭はふつうは一番高いところに位置する者に与えられるものですが、逆にパウロにおいては、罪人の頭ですから、最も低いところに自分を位置づけているのが分かります。そのように自分を位置づけなければならない理由がパウロにはあります。それはパウロの過去です。回心前のパウロは、徹底的に激しく教会を迫害しました。それが回心後キリストの福音を宣べ伝えるものになった。そうであるから、宣べ伝える相手には、徹底的に低くならざるを得なかったのです。それはたとえ奴隷であってもです。
奴隷は社会の最底辺に置かれたものです。それよりももっと低い位置にパウロは置いたのです。
そのことで福音に心を閉ざしていたオネシモが心を開き、福音を受け入れるものとなったのです。
ここで私たちはパウロよりも低いところにいる御方に目をとめたい。この御方がなければ、パウロは救われなかったのです。その御方はイエス・キリストです。
キリストはパウロ以上に誰に対しても低いところに立たれた御方です。
その御方の低み(十字架)によって、私たちは救われ、高められるのです。社会の底辺に位置するオネシモもキリストによって高められるのです。キリストによって高められることから漏れる人は誰もいません。
どんな罪人もキリストによって高められるのです。

2012年09月09日「謙遜と自慢」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二、3章1~11節

説教要旨:
1節で「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか」とパウロは言います。
何の自己推薦をし始めているのでしょうか。それは使徒性であります。
パウロは自分は使徒であるとの意識をもっており、その資格もあると確信していました。
エルサレム教会の推薦状などなくても、その資格はあると主張しているのです。
コリントの教会の人たちは、パウロの使徒性に疑いをもっていました。
エルサレム教会のお墨付きが必要であるとの考えでした。
しかしパウロは、使徒としての資格は人間的な権威によって与えられるものではなく、神から与えられるものであるとパウロは言っているのです。パウロは決してこの世的な意味で自己推薦しているのではないことをコリントの教会の人たちに知ってもらいたいゆえに手紙を書いているのです。
パウロは2節で「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」と言っております。
これは、パウロの使徒としての資格が神から与えられているのだという証拠がコリント教会の人たちの信仰において示されているはずであるという意味です。
しかし現実には、コリント教会の人たちの信仰は、パウロが当初宣べ伝えたキリストの福音から離れているような面が多々あったのです。だから早く悔い改め、福音に立ち帰るようにという熱い思いがパウロの言葉にはあるのです。福音に立ち帰るなら、パウロの使徒性は疑いのないものであることがはっきりするとの思いがあるのです。
パウロの使徒としての資格は神から来るから、パウロはこの世的な自慢から離れて謙遜にならざるをえないのですが、又一方では、神から来るからこそ、どんな人間が与える資格よりも、大胆に誇りをもってその資格を行使すべきであるとパウロは考えていました。事実パウロは考えるだけでなく、行使しました。なぜなら神から与えられる資格ゆえに、その資格を行使しないことは神に対して罪を犯すことになるからです。神から与えられる資格に謙遜でありつつ、他方大胆に誇りをもって行使することを私たちはパウロから学びたい。

2012年09月02日「ただ神の恵みによる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章1~11節

説教要旨:
今日の箇所には、キリスト者の歩むプロセスが書かれています。
私たちはキリストを救い主として信じる前は、1~3節にあるような者でありました。
すなわち神に背き、自我の赴くままの生活でありました。
それは神の怒りを受けるに価するものでありました。
神の怒りの前に滅ぶべき者であったのです。
それがキリストの十字架によって、救われたのです。
ただ神の恵みであります。神の憐れみと愛ゆえであります。
神の愛を受けるに価しない者が神の愛を受けるということはキリストの十字架ゆえであります。十字架の代価なくしてはありえないことであったのです。
私たちは十字架の死によって、罪赦されるだけでなく、新たな命をいただくようになります。
かつての古い自分は十字架で死に、新たな命を受けて、生きる者となります。
これもただただ神の恵みであります。私たちが造り出せる命ではありあません。
新たな命を受けた私たちは、次にキリストに似た者へと作り変えられる道を歩みます。
これも自分で造り変えるのではなく、キリストが聖霊において私たちのうちに住まわれることで起こってくることであるのです。
またキリストが内に住まわれることで、良い行い、良い業が生まれます。良い業は人間が作り出すというのではなく、聖霊において内に住まうキリストによるものです。
私たち人間が良い業であるという場合、その良い業は人によって違う場合があります。
ある人にとって良い業であっても、他の人にとっては悪い業であることがあります。
しかし神においては良い業は一つです。
このように見てくると、すべては神の恵みによっていることが分かります。
神の恵みによるのですから、私たちは他者に向かって誇ることはできないのです。
誇るなら、主を誇れということです。

2012年08月26日「聖霊の法則」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙8章1~10節

説教要旨:
今日の箇所の1,2節で「従って、今やキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」とパウロは言っています。
前の7章25節でパウロは「わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と言っています。要するに自分自身の中で分裂が起こっているのです。
心では神の御心に沿いたいと思うのだが、体においてはそうすることができないという私たちも経験する状態をパウロも経験しているのです。
そのような状態のままでは私たちは罪を犯し続け、罪は累積し、重荷となってまいります。
この行き先は死であります。罪の重荷に耐えきれず、私たちは押しつぶされるしかなくなります。
そこで私たちは救いを神に求めることになるのです。神のみが罪の重荷から私たちを解放してくれる御方であるからです。神に救いを求めるとき、イエス・キリストの御手が私たちに差し出されるのです。
その御手は十字架の御手です。私たちはキリストに結ばれます。そいて主イエスの十字架の御手は罪の重荷から私たちを解放するのです。
罪から私たちが解放されるとは、それはまた死から解放されることにもなります。
聖書は罪が支払う代価は死であると説きます。だとすれば、罪から解放されることは死からも解放されることになるのです。
そして私たちは死から解放されて、永遠の命をいただくことができるのです。これが霊の法則であります。
さらに私たちは死ぬべき体のままでいるわけではありません。その体にキリストが聖霊によって宿るのです。
キリストが聖霊において私たちの内に宿るとき、私たちの死ぬべき体は永遠の命を宿す体へと造り変えられるのです。
御心を行いえない体は御心を行いうる体へと造り変えられるのです。ここに心と体の分裂は止揚され、大いなる平安が私たちに訪れるのです。これもまた霊の法則といえるのです。

2012年08月12日「神のわざと人間のわざ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書7章36~50節

説教要旨:
今日の聖書の箇所では、2人の人物がイエスと出会っています。
一人はファリサイ派のシモンです。彼はファリサイ派であるにもかかわらずあえてイエスを家に迎え入れました。相当の決断であります。
よほどイエスに関心をもっていたことでしょう。そのイエスへの関心は律法にあると言っていいでしょう。ファリサイ派にとって律法は命と言っていいほどのものです。しかしイエスの律法理解はかなりファリサイ派とは違ったものであったので、一度真意を確かめたかったのかも知れません。
しかしイエスの話を聞く前に、一人の罪深い女が家に入ってきます。
そして思いもかけない行動を取るのです。「イエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(38節)のです。ファリサイ派のシモンはこの女がどういう女であるか知っていました。
ですから女の行動をなすがまま受け入れているイエスを心の中で詰るのです。イエスの受け入れは容認できないのです。
シモンなら、当然女の行為を受け入れる余地はありません。罪深い女と接触することは自分もまた穢れると思っていたからです。そんなシモンに対してイエスは譬え話をもって語ります。500デナリオンの借金を負った人と50デナリオンの借金を負った人の話です。
どちらもその借金を返すことができない状態でした。しかし金貸しは二人とも借金を帳消しにしたのです。金貸しは神です。借金とは罪を言い表しています。私たちは皆神に対して借金(罪)を負ったものであります。
そしてその借金は額の大小によらず、返すことができないのが現実であるのです。
にもかかわらず帳消しにされた(罪ゆるされた)のです。
ファリサイ派シモンの考えでは、50デナリオンぐらいなら自力で返せると思われる額です。
その額は自分が負っている借金であると考えたかもしれません。シモンは自分には罪がないとは思ってはいませんが、罪深い女よりはずっと少ない額の借金であると思っていたことでしょう。
女は500デナリオンもの借金を負っているのだと考えたことでしょう。
しかし50デナリオンという額の借金ですら、本来は自力で返せるようなものではないということをシモンは知るべきでありました。人間のわざで返せる額であるとのシモンの考えをイエスは打ち砕きます。50デナリオンであれ、500デナリオンであれ、神によってでしか帳消しになることはないのだとシモンは知るべきであったのです。
私たちはシモンのように少ない額の借金しか神にしていないと思うよりも、とてつもない額の借金をしている者であることを自覚することが大切です。破産状態にあると思うことです。しかし喜ぶべきかな、神はすべてゆるしてくださった。その喜びから神への限りない愛の思いが、また行動が生まれてくるのではないのでしょうか。

2012年08月05日「今ある未来」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書2章1~5節

説教要旨:
イザヤが見させられている幻は、確かに未来にかかわることです。
しかしその神の未来が現在にすでにあるというのが聖書の理解です。
神が見させたものでありますから、幻の主体者は神であります。
神であるがゆえに、その幻はすでに起こっていることとして理解するのです。
見えない事実を確認するのが信仰です。
では具体的にすでに起こっている神の平和の未来とは何なのでしょうか。
それはイエス・キリストです。
2000年前に神は御子キリストを通して神の平和を現されました。
キリストがゴルゴタの丘で十字架にかかられることで、神の平和はやってきました。十字架にこそ真の平和があります。
しかしその完成を私たちは未来(キリストの再臨のとき)に待たねばなりません。
でもすでに神の平和はキリストと共にやってきていることは確かなのです。
いかに今の時代が暗く見えようとも、平和の光は届いています。
主の神殿の山(ゴルゴタの丘)から、光を放っています。その光に導かれ、世界の民はそこに向かいつつあります。
キリスト者はすでにその山にやって来た者であります。
そこで主の御言葉を聴き、御言葉に従うのです。主は平和の御言葉を私たちに告げます。
神の平和の道を私たちに示されます。示された私たちは、その道を歩む者としてあります。
「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」神の御国へとキリストと共に歩む、そんなキリスト者でありたい。

2012年07月29日「主イエスを迎え入れる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章38~42節

説教要旨:
マルタとマリアという姉妹が登場してきています。
主イエスを家に迎え入れます。迎え入れた二人は非常に異なった対応をイエスに対してしています。
教会においてもこの対応の仕方で争いが起こります。
イエスはマルタに対して「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」といわれマリアを擁護したのです。
私たちはイエスのこの言葉に、ある意味でつまずきを覚えます。現代社会においては、行動することが何よりも求められます。
いろいろと考え、思案しているよりも、行動せよと言われます。
行動しないことが悪いことであるかのように捉えられます。その価値基準が教会に入ってきてマリアの対応よりもマルタの方が良いのではないのかという考えが教会においてもあります。
しかしそれは間違いです。信仰者はまず主の御言葉を聞くことから行動は始まるのです。
もし神の御言葉が正しく聞かれるなら、そこに神の創造が起こります。行動が起こされ、ある出来事が創造されてまいります。正しく聞かれないなら、神の創造は起こりません。いやむしろ神の御心とは違うことを、反することを人間は創造してしまうのです。
説教者は正しく御言葉を会衆に語るために、まず御言葉を正しく聞くことから始めねばなりません。
説教者が正しく聞けないなら、その聞けない説教者からどうして会衆は正しく聞くことができるのでしょうか。
イエスのマルタに対しての言葉は、会衆のみならず、説教者もまた聞き入る言葉であるのです。

2012年07月22日「キリストが内に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節

説教要旨:
今日の箇所でパウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と申しています。なぜならパウロはキリストとともに十字架につけられたからであります。
十字架で死んだということです。その死んだのはパウロの古い生き方であります。
つまり律法をことごとく守ることで救われる、義とされるという生き方です。
自力によって救いを得るという方向から他力(神の恵み、十字架の恵み)によって救われるという方向へと転換したということです。
私たちは死ななければ新しい命にあずかることはできません。古いままで、新しい命をいただくことはできません。
キリストが内に生きているということにはなりません。私たちの心には、自我という強固まものが住んでいます。
自我は自分の力で救いに達しようとします。もしそれができるなら、キリストが十字架で死なれるということは必要なくなります。
無意味となるのです。
自我の究極の目的は自分が神となることです。神はそのような自我の驕り高ぶりを打ち砕きます。
そのような自我は十字架でキリストとともに死ななければならないのです。
そこではじめて私たちは古い命に代わって新しい命、キリストの命をいただくのです。キリストが私たちの内に生きはじめるのです。
そのキリストの命は復活の命であり、また永遠の命へとつながる命であるのです。

2012年07月15日「罪を赦された幸い」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編32編1~11節

説教要旨:
この詩編では幸いなる人は私たちが通常考える幸いなる人とは違う人が記されています。私たちがこの世的に考える幸いなる人は、物心両面において満たされた人であります。
詩人はそれとは違う人であります。罪の重荷を誰にも打ち明けられずに苦しみ悩んでいるのです。
なぜ彼は神に打ち明けられなかったのでしょうか。それは彼にとって神はとても怖い御方であり、打ち明ければ、神は自分に罰を与えるに違いないと思っていたからです。
神ではなく、誰かほかの人に打ち明ければ良かったのですが、人に打ち明ければ、その人は自分を責めるに違いないゆえに、また世間は彼を冷たい目で見るに違いないとの思いゆえに、なかなか誰にも打ち明けられずにいたのです。そんな中にあって彼は疲れ果てました。
このままでは命の危機に陥ります。そこでとうとう詩人は神へと向かったのです。
どんなに勇気がいったことでしょうか。彼は、神の罰を覚悟で御前に罪を告白したのです。
すると以外にも、神は罪を赦してくれたのです。
彼は人生の危機を脱することができました。
神は憐れみ深い御方であることをイエス・キリストの十字架において私たちに示しておられます。
私たちは躊躇することなく、十字架のキリストへと向かうべきです。キリストは私たちが犯したどのような罪をもすべて贖い、ゆるしてくださいます。キリストに現れた憐れみ深い神を信じていくことで私たちは幾度も幾度も人生の危機を乗り切ることができるのです。
そんな人が幸いなる人であると詩編32編は告げているのです。

2012年07月08日「主の愛の契約」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:申命記7章6~8節

説教要旨:
今日の箇所はイスラエルの神の選びの理由について述べられています。
そこには2つの理由が記されています。一つは「心引かれて」というものです。
この「心引かれて」と言う言葉は、情的な事柄を意味しています。
神はイスラエルの民に感情的に引き寄せられて選ばれたということです。
神も感情というものをもっています。理性だけではありません。
神は弱い者、貧しい者に対して心を動かされ、目をとめる傾向性というものをお持ちであるということです。そこには、弱いがゆえに、貧しいがゆえに、神に頼らざるをえないということがあります。またへりくだり、謙虚にならざるをえないということがあります。ですから選ばれたといっても、そこで驕り高ぶってはならないのです。
神の民として、神に頼り、へりくだり、謙虚になって生きていくことが求められているのです。
しかし民の歴史はそうではありませんでした。神に頼るよりも、偶像に頼り、他の民族に対しては傲慢になり、偏狭な民族主義、選民思想を展開していったのです。
このような民を神は見捨てることもなく、神の民としてなおも保持されておられます。
どうしてでしょうか。それは神との契約ゆえであります。
この神との契約においては、主の愛があります。「心引かれて」の選びは間違うことがあります。しかし主の愛は真実です。相手がどうであれ、どこまでも貫かれるものです。
この主の愛ゆえに、契約はイスラエルの方で破っても、神は破棄するということはありません。
イスラエルの不真実ゆえに、破棄されるということはないのです。
神は契約に関して真実なる御方であります。
私たちの罪いかんに関わらず、神は契約を破棄されないのです。
そのような神の真実、主の愛はイエス・キリストの十字架において私たちに現れています。
神はイエス・キリストを介して、新しい契約を私たちと結ぼうとされておられます。
イスラエルの民と同じように、契約を結んだ私たちの罪の現実がいかに重く、深刻であろうとも、神はキリストの十字架の血潮ゆえに、契約を破棄されることなく、私たちをなおも契約の民として保持されるのです。

2012年07月01日「主が求めるのは憐れみ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書12章1~8節

説教要旨:
今日の箇所はファリサイ派がイエスに安息日をめぐって論争を挑んでいます。
なぜなら弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたからです。
空腹のとき、他人の畑の麦の穂を摘んで食べることは律法でも許されていたことであるのですが、問題は安息日にそれを弟子たちがしたということでした。
ファリサイ派から見れば、その行為は安息日規定に違反する行為であり、許しがたいものであったのです。
イエスはそんな彼らに「主が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とホセア書を引用して言われます。
この憐れみという言葉は憐憫の情などという、どちらかというと上から目線の思いではなく、自らも共に苦しみ、痛むという感覚的なものを含んだものであります。
ということは、イエスは弟子たちの空腹の苦しみを体でもって共有されたということです。
弟子たちが飢餓の絶頂にあったかどうか分かりませんが、もし極度の飢餓ゆえに今日にでも死を招くとなれば、すぐにでも食べさせることは大事なはずです。
それを安息日だから、食べることはまかりならんということになるのかとイエスは問われるのです。
ファリサイ派の人たちは、自分たちの間だけで安息日規定を形式的に厳守しているのならまだいいのですが、それを他人にまで形式的に適用しようとしました。ですから絶えず他人に対して、「彼は(彼女は)律法を守っているかどうか」に関心がありました。守っていないと批判し、糾弾したのです。さらに社会から排除しようとしたのです。
ユダヤの宗教的律法社会の秩序を保とうとしたのです。イエスをはじめ多くの人は彼らのいけにえとなりました。
罪なき者が彼らから罪ある者として裁かれました。
ここに彼らの大きな罪があります。憐れみの心をなくしたとき、私たちも容易にファリサイ派へと転落することを心にとめたい。

2012年06月17日「主を仰いで救いを」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書45章20~25節

説教要旨:
22節「地の果てのすべての人よ、わたしを仰いで、救いを得よ」と呼びかけられています。神の救いはすべての人へと呼びかけられています。
にもかかわらずイスラエルの民は自分たちだけが救いの民であると勘違いしました。
さらにそれゆえの慢心ゆえか、偶像礼拝に走りました。
本来なら神の選びの民としてヤハウエの神のみを神とすべきであったのですが、そうとはならず、他の民族の神々もヤハウエの神と並んで拝むことをしたのです。
神はイスラエルの選民信仰と偶像礼拝に対して預言者イザヤの口を通してイスラエルの方向転換を求めています。
偶像礼拝から離れ、神に立ち帰り、世界の民に神の救いは全人類にあることを告げるようにと促すのです。
イスラエルは私たちの反面教師です。私たちもイスラエルのように偶像礼拝に陥ることはないのか自問反省しましょう。イスラエルと同じように神と並んでこの世の偶像を拝んではいないでしょうか。神礼拝と偶像礼拝とは並び立つことはできません。
偶像は何も形に現れたものだけではありません。
形にならない偶像もこの世には多くあります。それを偶像とは意識せずいることもあります。
いかに偶像が美しく、精巧に造られていても、また偶像が偶像でないかのように見せかけて、人々の心を誘惑し、帰依させようとも、そこには救いはありません。
真の救いは神からのみ来るのです。

2012年06月03日「恐れるな」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書10章26~33節

説教要旨:
イエスは「恐れるな」と言われます。今日の箇所だけでなく、ほかの箇所においてもイエスはしばしば「恐れるな」と言われます。
その御声を聞くことで私たちは力を得ることができます。
私たちは苦難や試練に直面するとき、たじろぎ恐れることがあります。
なかなか苦難や試練と真正面から向き合うことができないことがあります。
そんなときイエスの御声を聞くことで向き合うことができるのです。そして御声に支えられて、また力を得て、苦難や試練を乗り越えることができるのです。
今日の箇所でイエスは、弟子たちにやがて迫害が来るであろうが、「迫害する者」を「恐れるな」と言われます。「迫害」それ自体を恐れるなではありません。
迫害が激しければ激しいほど私たちは恐れを感じます。イエスはそれをよくご存知です。否定されません。
そんな私たちの弱さをイエスはよく知っていますから迫害に対しては自ら盾となってくださいます。
迫害者がキリスト者に加える迫害に対してイエスが自ら盾をなってくださるなら、どうして迫害者を恐れる必要がありましょう。すでに迫害者は敗北の中にあります。
ですからイエスは迫害自体を恐れるなと言われているのではなく、迫害する者を恐れるなと言うのです。
私たちが神によって知られているように、迫害する者も神によって知られています。
いかに迫害する者が反キリストであるかをイエスはよくご存知であります。
最後の審判のときには必ず彼らは神によって裁かれるます。そしてそのとき
神の義は完成されます。だから迫害する者の運命はすでに定まっているのです。
迫害する者こそ、神を恐れるべきであるのだとイエスは言われているのです。

2012年05月27日「世にも不思議な出来事」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章1~13節

説教要旨:
今日の箇所はとても不思議な出来事が記されています。
ひとりの人だけが他国の言葉を話したのではなく、集まっていた人全部が他国の言葉で話し出したのです。
そして意志の疎通ができたのです。
ある一つの言語で皆が意志の疎通を図ったというのではないのです。
たとえば今日英語が世界の共通語のような位置にありますが、ペンテコステにおいて、英語という一つの言語が排他的に用いられたというのではなく、いろいろな国の言葉で話されたのです。
それも生まれてから一度も学んだこともなければ、聞いたことのない言葉で話したのです。
またその場に居合わせた人は、当時の時代においては世界中と言っていいほどの広がりでもってエルサレムに集ってきた人々でありました。
ここには示唆に富むことが描かれています。
まず私たちは世界の国の人々が一つの言語でもって話し合うことができたらいいのにと思いますが、たとえばエスペラント語などによって話し合えたらいいのにと思いますが、神の御心はそうではなく、あくまで多言語で聖霊によって意志の疎通を図るということであります。
そこには神は私たちの世界が多様性をもったものであることを望んでおられることが分かります。
一つの言語に統一されることを望んでおられるのではないということです。
また世界中の民がエルサレムという一箇所に集うているということで、聖霊によって民族の壁、言語の壁を乗り越えて世界の民が一つとなることを求めておられることも分かります。
今日の世界には民族の違いによる対立や戦争があります。民族の違いには言語の違いも付随します。
その違いゆえに民は苦しんでいます。
では神の御心は世界の民が一つの民族、一つの言語になることであるのでしょうか。
違います。世界の民は、民族の多様性をもちつつ、聖霊による一致を神から求められているのです。
教会がペンテコステの出来事にその誕生の由来をもつとするなら、教会は単色の世界ではなく、多様性に富みつつも、分裂、対立に陥ることなく、聖霊による一致を祈り求める群れでありたい。

2012年05月20日「弁護者としての聖霊」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書16章1~15節

説教要旨:
今日の箇所で主イエスは、ご自身の死を予告されます。
それを聞いた弟子たちは当然悲しむことになります。
でも主はすぐあとに弁護者を送ることを語られ、弟子たちを慰めます。弁護者とは聖霊のことです。
この弁護者としての聖霊は、やがて福音伝道活動において迫害を受ける弟子たちにとって、彼らを支え、力づけるものとして機能することになります。
弟子たちはそのことがまだ理解できていません。彼らは十字架すらましてや復活さえも分からない状態であります。
そんな弟子たちでありますが、のちに復活のキリストとの出会い、そして聖霊の満たし受けたとき(ペンテコステ)に、初めてかつてイエスが言われたことが真理であったと悟ることになるのです。
聖霊は真理を悟らすだけでなく、真理を語らせる働きもします。
事実弟子たちはペンテコステ以後迫害をも恐れずにキリストの福音の真理を大胆に語るようになります。
それも聖霊の働きであります。そのことで多くの教会がまたクリスチャンが生まれたのです。
その歴史の中に私たちの教会もあります。
説教者は礼拝で御言葉を語ります。それは聖霊の働きによるものです。
また説教者が語った御言葉を会衆に悟らせるのもまた聖霊の働きであります。
ですから私たちは聖霊の満たしを共に祈り求めるのです。
聖霊なくして福音の真理を語ることも悟ることも本来できないのです。
そして迫害などの困難な状況の中にあっても、福音を語らせるのは一重に聖霊によらなければできないことなのです。弁護者としての聖霊に満たされて福音を時が良くても悪くても語る者でありたい。

2012年05月13日「苦しみを共にされる神」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:出エジプト記3章7~10節

説教要旨:
今日の箇所は聖書の神とはどのような神であるかを語っている箇所であります。
多くの人は思います。神は全能であるから、苦しむはずがない、痛むはずがないと。
しかし聖書の神はそうではありません。7節には「彼らの叫びの声を聞き、その痛みを知った」と記されている通り、痛み、苦しみを知る御方であります。この「知る」と訳されている言葉は単に頭で知るというだけではないのです。体全体でもって知ったという意味です。
神は、エジプトの地で奴隷として苦しんでいるイスラエルの民の肉体的な痛みを感覚をもって知ったのです。
そのことは、神は私たちの苦しみ、痛みを共に痛み、苦しむ御方であることを告げているのです。
そのことが御子イエス・キリストの十字架において目に見える形で如実に現われたのです。十字架で神は文字通り肉体をもって痛み、苦しまれたのです。ですから私たちが痛み、苦しむとき、神はまことに近くにおられるのです。いや近くというよりも、私たちの肉体の痛みと苦しみに共に与っていると言っていいのです。私たちの苦しみの叫びを聞き、共に与っている神を歌で表現するのがゴスペルの心であるのです。

2012年05月06日「主イエスを心に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書15章10~20節

説教要旨:
今日の聖書の箇所でイエスはファリサイ派の人たちを批判しています。
彼らの信仰を問題にされています。
イエスは「口から入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである」(11節)と言っています。ここでイエスは律法の中にある食物規定を問題しています。ファリサイ派の食物規定を一字一句そのまま守ろうとする堅くなさに対して、異議を唱えています。
そんな食物規定を厳格に守るよりも、あなたたちの心の中にあるものが口から出てくることで人を汚すのだということに思いを致せと言うのです。
このイエスの言葉にファリサイ派の人たちはつまずいたと言われています。
彼らが大事だと思っていた律法厳守が批判され、彼らの心が問題にされているからであります。
口から出てくるものとは具体的には言葉であり、行為であります。その言葉や行為の背景にあるのは私たちの心です。私たちの心が濁っていれば、良い言葉や良い行いは出てきません。
心が澄んでいれば、良い言葉や良い行いが出てきます。
イエスはファリサイ派に対して、あなたたちの心は濁っているにもかかわらず、自分たちはそうではない清いのだと驕り高ぶっているから、駄目だのだと批判しているのです。
彼らの清さの基準は律法をどれだけ厳格に守っているかどうかという点にあります。
それに対してイエスはそんなのは神の清さではない、神の清さは心にあるといわれているのです。
私たちの心は誰でも罪で濁っています。清いものなど誰一人いません。
では私たちが清さを得るにはどうしたらいいのでしょうか。私たちは自らの力で清くなることができるのでしょうか。できません。濁った水が自らの力で澄んだ水になることができないのと同じように、私たちの濁った心を自分の力で透き通ったものにすることはできないのです。
私たちの心は神によってしか清くなれないのです。
私たちの心に主イエスを迎え入れることでしか私たちは清くなることはできないのです。

2012年04月29日「御言葉への信頼」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書4章43節~54節

説教要旨:
今日の箇所は、ある役人の息子を癒す物語です。
イエスがカナに来たことを聞いた役人は、息子の病気を癒してもらうためにイエスのところに来ます。彼はイエスに一緒に来てもらって息子が癒されることを願うのですが、イエスはそれをせず、ただ言葉だけを彼に与えます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という言葉です。
イエスは役人の信仰を試しています。彼の信仰が単なるご利益信仰であるかどうかを見定めているのです。彼の信仰がご利益信仰ではなく、御言葉信仰であるのかどうかを見極めているのです。
彼の信仰がご利益信仰であるなら、彼はイエスの言葉に逆らって、「イエスさま、どうかそう言わないで、私と一緒に息子のところまで来てください」と言ったことでしょう。
しかし彼はイエスの言葉に信頼し、素直に従い、ひとりでカファルナウに戻っていったのです。
そしてイエスが言葉を発せられたときに息子は癒されたことを知るのです。
今日の箇所の53節では彼とその家族がイエスを信じたのが、息子が癒されたから信じたように書かれていますが、そうではなく、彼がイエスの言葉に信頼し、信じたときがイエスを信じたときであるといえます。御言葉信仰に堅く立ったとき、癒しは起こったのです。
そして家族も、イエスの御言葉が一瞬のうちに空間を超えて、同じ時刻に息子のところまで届き、息子が癒されたことを信じたのです。
ですから彼らの信仰は決して単なるご利益信仰ではなく、神の御言葉に対しての信仰であるのです。私たちも神の御言葉への信仰を強められたい。

2012年04月15日「散らされて生きる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記11章1~9節、マタイによる福音書28章16~20節

説教要旨:
創世記11章のバベルの塔の物語では、民は神によって全地に散らされます。
このことは神の裁きとしてあるように見えますが、一方では神の恵みでもあるのです。
それは創世記1章28節の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の祝福が実現していく方向性をもっているからであります。散らされることなしには人類は全地に満ちることはできないのです。
しかし散らされることで互いの言語が違ってきます。言語の多様性が生まれます。
しかし一方では同じ言葉で話し、理解し合うということができなくなります。
またそこに違う民族が生まれます。人類の多様性が生まれます。
確かに言語が違うということは意志疎通において困難さが生じます。
しかしそこに互いに理解し合おうという意識も生まれます。相手の言語を理解しようとする努力が生まれます。
同じ言語ですとそういう努力を私たちはしません。
このように考えれば、決して散らされるということはマイナスばかりではないのです。
そのことをプラスに考えることも大事であります。
神がバベルの塔の物語を通して私たちに指し示していることは、私たちが同質的なものであることは決して好ましいことではないということであります。
私たちは異質なものを含んだ多様性において生きるものであることです。
神によって全地に散らされた多様性に富んだ者がまとまりなくばらばらになって、互いにいがみ合い、争い合い、殺し合うのではなく、一つとなるためにイエス・キリストは来られたのです。クリスチャンは世に先駆けてキリストによって集められた者たちであります。
集められてキリストにあって一つとなった者たちであります。
そしてキリストによってこの世へとまた散らされて(派遣されて)、福音を証ししていくものであるのです。

2012年04月08日「目が開かれて」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章13~35節

説教要旨:
今日の箇所は復活の主イエスと二人の弟子たちの出会いが記されている箇所です。
二人は最初は自分たちに話しかけているのが、イエスであるとは分からないでいました。
目が遮られていたからです。それは彼らのイエスに対しての理解が間違ったものであったからです。私たちも間違ったイエス理解では、目に前にイエスが現われてもイエスと認識することができないでしょう。
二人はイエスを預言者の一人あるいはローマ帝国からユダヤの民を解放する現世的なメシアとして見ていたのです。また自分たちの仲間の婦人たちがイエスが葬られた墓に行ったとき、墓は空っぽで遺体がなかったとの報告を信じることができませんでした。つまりキリストの復活を信じることができなかったのです。
そんな彼らにイエスは聖書を解き明かします。このとき二人の心は燃えていました。
聖霊がそのようなにしたのでしょう。でもまだ聖書の解き明かしを受け、心が燃えても彼らはイエスだと分かりません。
メシアは苦しみ(十字架)を受けるという預言があるにもかかわらず、彼らにとって十字架は敗北でありました。
これまで大いに期待してイエスに従ってきたのが、その最後が十字架であったとは。彼らは大いなる挫折感を味わいます。彼らの将来は全く暗いものです。絶望です。
圧倒的な絶望の中にあって、まだ彼らはイエスが分かりません。絶望の方が強く彼らを支配しています。
ところがイエスが家に入り、食事を共にするとき、パンを裂いたとき、すなわち二人が裂いたパンを食べたとき、イエスだと分かったのです。するとイエスの姿は見えなくなったのです。
ここにおいてやっとイエスだと分かったとはあまりにも遅いではないかと思います。
でもこれが私たちの信仰であるかもかもしれません。私たちは目に見える命のパンであるイエスを食することで、はじめてナザレのイエスをメシアとして理解することができるのかもしれません。
そしてそのメシアは復活したのだ、今も生きておられるのだということが分かるのかもしれません。
二人の弟子は確信しました。イエスはメシアであり、復活されたのだ。彼らの信仰の確信を見てイエスは姿を隠されたといえるのではないかと思います。もはや目に見える形で現われなくても大丈夫であるとイエスも確信したのではないのでしょうか。
もはやこの時点で二人には絶望ではなく、希望が支配します。
すると二人は今来た道を戻ることとなります。エルサレムへと向かうのです。
その道は絶望の道から希望の道へと転換することになったのです。

2012年04月01日「神の子イエス」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書27章45~56節

説教要旨:
イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と詩編22編を叫ばれました。一見するとイエスはとても弱い感じです。神の子としてのふるまいにふさわしいものでないように見えます。しかしここに神の子イエスの真髄があるといえます。
それはなぜか。それはイエスにおいて私たちすべての人の絶望が叫ばれているからです。
十字架という一点に私たち人間の絶望が凝縮しているからです。誰も地球上すべての人の絶望を代わって叫ぶことはできません。神の子のみができることであります。
私たちは罪の重荷に誰も耐えることはできません。絶望しか残されておりません。
私たちは皆重荷に押しつぶされて滅ぶしかない者であるのです。そんな私たちの絶望的状況をイエスは十字架で私たちとともに叫ばれたのです。絶望を負われたのです。
それによって私たちは希望を抱くことができるのです。私たちのどんなに深い罪の淵にも十字架で神に捨てられた神の子イエスは下り、私たちのところに来て、御手をもって私たちを引き上げてくれるのです。そしてイエスご自身も神によって復活させられます。
この救いへの信頼がイエスの叫びにもまたあるのです。詩編22編の最後は神への信頼において終わっています。イエスもまた神への信頼をもって死なれたといえます。
この神の子イエスの神への信頼は私たちの希望でもあります。
私たちはどのような苦難の中にあっても、絶望的状況下にあっても、希望をもって神に信頼して歩みを前に進めたい。

2012年03月25日「負い目の償い」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書14章66節~72節

説教要旨:
今日の箇所はペトロの裏切りの場面です。かつてペトロは「たとえ、みんながつまづいても、わたしはつまづきません」、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14章29節、31節)と言いました。
しかし今日の箇所で彼は知らないと3度イエスを否んだのであります。
ここに私たち誰もが見せる人間の弱さがあります。誰一人としてペトロと別人である人はいないのです。自分の命がかかるような状況下では私たちは容易に日和見になるのです。
そして後で後悔することもあります。どうしてあんな行為をとってしまったのだと悔やむのです。自分の日和見によって傷を負った人に対して負い目を感じるのであります。
どうしたら負い目を償うことができるのかと人は悩みます。傷を負わせた相手に赦しを求めます。
相手が赦してくれるならいいのですが、赦してくれない場合も当然あります。
もし仮に赦してもらっても、心は平安に完全にはなりきれません。
多少負い目は軽くなっても、依然として負い目を引きずったままであるのです。
私たちは平安を得ようと思うなら、人間を超える御方に負い目の償いをしてもらうしかないのです。私たち人間の償いの行為によって完全に罪を償うことなどできないからです。人間による罪の償いには限界があるのです。
私たちを創造された御方によって、私たちの命の根源である御方に償ってもらうしか完全な償いはないのです。その完全な償いをする方がイエス・キリストであります。
キリストは十字架でそのことを果たしてくださいました。私たちの負い目を十字架で私たちに代わってすべて負われたのです。
私たちはこのことを確信することで、はじめて平安が訪れるのです。
そして十字架に現われた神の愛に報いて生きようとする道が開けます。
イエスの弟子たちはその道を復活のキリストと出会い、歩き始めることとなったのです。

2012年03月18日「愛の聖餐」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一、11章17~34節

説教要旨:
ここに初代キリスト教会の聖餐の祝われ方が記されています。
今日とは相違があります。それは愛餐が聖餐と分離していなかったということです。
分離していなかったがゆえに、今日の箇所での問題も起こったといえます。
パウロによって批判されている人々は聖餐と愛餐を分離して考えていました。
だから聖餐に先立つ愛餐ではどのように食事をとろうが好き勝手だみたいな考えから食事をとりました。その結果起こったことは、愛餐に遅れてきた人は食べる物がないという由々しき事態が生じたのです。パウロはそのことを批判しました。
キリストのからだである教会にとってふさわしいことではないと罪の悔い改めを迫ったのです。
パウロにとって主の食卓は愛餐と聖餐と同じテーブルであります。ここからは愛餐のテーブルで、ここからは聖餐のテーブルであるという具合にテーブルを分離できないのです。
同じ主のからだに属する者として皆同じ主の食卓につき、共に分かち合うべきであるのです。
そこに分離や分裂があっては主のからだにふさわしいことではないのです。

2012年03月11日「ユダとペトロ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書26章14~25節

説教要旨:
今日の箇所はユダの裏切りの場面であります。
イエスの弟子たちの中からイエスを裏切る者が出るということは、イエスの力について疑問をもたれるところであります。
12弟子はイエス自ら選んだ弟子たちであります。その選びが間違っていたのか。
イエスは選ぶ段階で弟子の裏切りを見抜けなかったのか。
イエスの神性に疑問符がつきかねないことであります。
しかしイエスが無能であったから、裏切りが起こったのだと結論づけるには無理があります。なぜなら裏切りは旧約聖書において預言されていたことであるからです。預言は成就すべきものであります。誰かが裏切りの役を担わなければならなかったのです。そのことをイエスは知った上であえてユダを選んだのです。ユダは過酷な運命を選ばれる段階で、いや生まれながらにして担わねばならなかったのです。
神のご計画の中でユダの裏切りは起こります。ユダにはどうしようもないことであったのです。確かにユダの側では自分の意志でイエスを売り渡したと認識していたことでしょう。その証拠に彼はあとでイエスを売り渡した罪を懺悔しています。
しかし神の側では予定の出来事であったのです。
そんな裏切りの役を担った(担わされた)ユダは救われるのでしょうか。
ユダの裏切りの責任を問うことが私たちにはできるのでしょうか。
できないのではないのでしょうか。誰もがユダの役目を担う者として一方的に選ばれるなら、誰もがそんなことは御免蒙りたいと思うことでしょう。であるなら、私たちは正義感からイエスを裏切るユダはゆるせないと言って一方的に憤ることはできないでしょう。
むしろ神を責めるのではないでしょうか。ユダもまた自分を選んだ神を責めることでしょう。
どうして他の者を選ばなかったのかと。
神は、私たちのその責めを十字架で負われたのです。
イエス・キリストが十字架で責めを負われたがゆえに、ユダの裏切りの罪は贖われ、赦されうるのではないのでしょうか。

2012年03月04日「扉よ、開け」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書7章31~37節

説教要旨:
今日の聖書の箇所に登場してくる人は耳が聞こえず、舌の回らない人でありました。
その人を人々はイエスのところに連れてきたのです。彼は連れられて来たのです。自分の積極的な意志で来たのではないのです。彼はいやいや半ば強制的に連れられてきたのです。
なぜでしょうか。そこには彼の神に対する憎しみや敵意というものがあったからです。
当時の支配的な考えに因果応報思想というのがありました。その考えによると、彼の負っている苦難は彼が過去に犯した罪の罰としてあるというものです。でも彼には今受けている苦難を受けるに価するだけの罪を犯した覚えはないのです。もし神が因果応報の神であるなら、そんな神に対して彼は憎み、敵意すら抱くのではないのでしょうか。
そのような彼をイエスは受け入れていきます。イエスは「お前は神を信じていないだろう。敵意する抱いている。そのようなものを自分は癒すことなどできない」と彼を退けたのではないのです。
イエスは敵意すら抱く者をも受け入れ、癒しの御業をなさるのです。
イエスは彼と神との間にある憎しみと敵意という厚い扉を開け放とうとされるのです。
神の側からしかその扉は開けられないからです。
彼の方で進んで扉を開けるなどということはできないほどに神は憎まれているのです。
彼の心は全く閉ざされていたのです。そんな彼のところにイエスは行き、扉を開ける。
私たちの人間関係において、自分に敵意を抱いている者の心の扉を開けることは、至難のわざであります。その至難のわざがイエスにおいて起こったのです。
それはただ愛によってのみ起こりうるものであります。
イエスはその生涯、愛によって人々の心の閉ざされた扉を開け続けていった御方であります。
私たちもイエスによって開かれねばならない心の状態にいつなるかもしれません。
そんなときイエスの御声「エッファタ、開け」を聞きましょう。

2012年02月19日「恵みの充満」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書14章13~21節

説教要旨:
今日の箇所はいわゆる「5000人の給食」の奇跡物語です。
とても常識では考えられないことが起こっています。わずか5つのパンと2匹の魚から
5000人以上の人が満腹したのです。本当にこんなことが起こったのかと疑問に思われる
方も多いことでしょう。そこでこの物語を精神的に読むということがあります。
5000人が満腹したのは、イエスの言葉を聞くことによるものであり、肉体的に満腹したのではないと説明するのです。でもそれでは半分の理解であります。
彼らは肉体的にも精神的にも満腹したのです。
これが神の国であります。神の国は精神的な面で事足れリというものではありません。
神の国は肉体的な面においても人を充足させていきます。ですから実際に5000人もの人が肉体的にも満腹したのです。
どうやってでしょうか。それはイエスが天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂くことで起こりました。私たちは奇跡を待ち望むなら、神に向かう必要があります。
そして主を讃美することが大切です。私たちは困難な中にあって、神を仰ぐことはあっても、主を讃美することは少ないのではないのでしょうか。
そしてパンを裂くのです。イエスはパンを5つから10、20、30、100、200と言う具合に増やしていったのではありません。裂いたのです。それは分かち合うためであります。
分かち合いにおいて、5000人もの人が満腹できたのです。一人分はいかに小さくとも、それが主によって与えられるとき、その人のうちで大きく膨張し、満腹できるのです。

2012年02月12日「み赦しあらずば」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書18章21~35節

説教要旨:
今日の箇所の譬えでは、仲間を赦さない家来が登場しています。
イエスはペトロが「7回まで赦すべきでしょうか」との問いに「7回の70倍」と返答されました。7回の70倍とは限りなく赦せということであります。
とても人間にはできないことです。ペトロがそれは無理ですと言う前にイエスは、天の国のたとえを話されます。王様から1万タラントンもの巨額の借金をしている家来がいます。とても一人では返せる額ではありません。
王は返済期日が来たので返すように命じます。家来はできないので、待ってくれるように懇願します。
そんな家来を憐れみ、王はすべての借金を帳消しにしたのです。
家来は本来なら返すべき借金を返せずに滅ぶべきところにあったのに、王の憐れみによって救われたのです。にもかかわらず仲間に貸してあった100デナリオンを返すように仲間に迫ります。仲間は返すから待ってくれというのですが、家来は承知せず仲間を牢に入れてしまうのです。
このたとえで言わんとされていることは、1万タラントンという返すことができないほどの罪の負債を私たちは皆神に負っているということです。本来なら借金で滅ぶはずの者が、主の憐れみにより赦され救われた者であるということです。
借金の帳消しということで負債をゼロにされたというレベルでとどまるのではなく、途方もない罪の赦しの恵みを神からいただいているのだと私たちは知ることが大事であります。ゼロではなく、罪の赦しという巨額(1万タラントン)のプラスとしての恵みをいただいているということです。
であるなら、1万タラントンに比べればわずかな額である100デナリオンを惜しんで、仲間を責めるのではなく、赦すということが大切なのではないのかとイエスは言われているのです。
イエスが説いた天の国(他の福音書では神の国ですが)はそのような赦しの世界であります。
その根源にあるのが私たちは皆主によって赦され、生かされている存在であるということであります。そのことを深く知ることなしには、私たちは依然として罪の負債を膨らます者としてあり続けるということです。そして仲間を赦さない家来としてあり続けることになるのです。

2012年02月05日「御言葉に従う栄光」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書30章18~26節

説教要旨:
預言者イザヤが登場した当時は、イスラエルは南北に王国は分裂していました。
そして大国アッシリアが攻撃をしかけ、国は危機の中にありました。
その危機を脱するために神に頼るよりも、エジプトの力に頼る方を選ぶ方向で民は向かっていたのです。そんな中イザヤは神に立ち帰るように民に語っていったのです。
神に立ち帰るなら、祝福を与えると語るのです。
問題はイザヤを通して語られる神の言葉に信頼し、従うかどうかです。
それが民にはできなかったのです。
この世的に考えれば、神よりも、この世的な力(たとえば、エジプトの軍事力)に頼る方が現実的であると思われるでしょう。民もそう考えたのです。信仰なき人にとっては、現実的な考えかもしれませんが、真の信仰者にとっては非現実的な考えです。
目に見える力に頼るのではなく、目に見えない力=神の力に頼るべきであるのです。
信仰者は神の現実に信頼する者です。神の現実こそ、言い換えれば、神の御言葉こそ真に信頼に値するものであるのです。人間の現実は移ろいやすいものです。
目に見えるこの世的現実は明日には非現実になるかもしれません。
人間の言葉は短期的には現実を映しているようで、中長期的に見れば、現実的でないことが多いものです。その結果短期的にも結局現実を映していなかったということになるのです。
神の御言葉はたとい未来を指し示していても、それはすでに今現実なるものとして受け入れ、従うとき、神の祝福が訪れるのです。

2012年01月29日「大胆に恵みの座に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙4章1~16節

説教要旨:
神の安息ということが言われていますが、これは天地創造の7日目に神が休まれたことと関係しています。さらにこの神の安息が新約聖書においては神の御国の成就のときを指していることは確かです。新しい天と地のなるときです。そのとき私たちは永遠の安息に入るのですが、その神の約束から取り残されてしまったと思われる者が出ないように気をつけなさいと言うのです。その注意はイスラエルに当てはまることでありますが、新約の民においても当てはまることがないように注意しなさいと言うのです。しかし取り残されたとは言われていないことにも注意を払いたいと思います。まだ神はイスラエルに対して、またイエス・キリストを受け入れない人に対しても神の安息にあずかることを望まれています。神は全人類が神の安息にあずかることを欲しているのです。
神の安息からはずれることがないように、神の御言葉に忠実に歩むことが求められるのですが、なかなかそれができないのが私たちであります。そんな私たちの弱さを主イエスはよくご存知であります。ですから主のもとに自分の弱さをもっていくなら、弱さをあずけるなら、主は私たちの弱さを受け入れ、聖霊によって強めてくれるのです。私たちの弱さはキリストにあってはマイナスではなく、キリストに結ばれる契機となるものであり、そのことゆえに恵みでもあることを覚えたい。

2012年01月22日「主イエスに忠実に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙3章1~19節

説教要旨:
ヘブライ人への手紙3章5、6節では「モーセは神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです」。と言われています。
モーセはあくまで人間であり、神によって建てられたイスラエルという家の中の一員であり、一員でありつつも、神の召しによりイスラエルをエジプトから導き出す役割を担い、神の意志に忠実に行動したのですが、イエスは神の御子として新しいイスラエル=新しい神の家である教会を、さらに教会に属するキリスト者を建て、その頭となって父なる神の意志に忠実にキリスト者を導くのです。モーセは神によって造られた者であり、イエスは教会と私たちを造った御方である点で大きな違いがあるのです。ゆえにイエスの方がモーセよりも大きな栄光を受けるにふだわしいのです。
そのキリストの栄光をキリスト者は新しい神の家の中の一員として受けていることを覚えたいと思います。
具体的にはキリストの栄光を私たちは聖霊を通して受けています。
新しいイスラエルに属する私たちは聖霊においてキリストを内に宿し、キリストによって内を治めていただくことでキリストに忠実な歩むができるようになるのです。
聖霊の内住がないと、私たちは荒野でのイスラエルの民のようになってしまうのです。

2012年01月15日「人間の栄光のために」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙2章1~18節

説教要旨:
今日の箇所でヘブライ書の著者は詩編8編を引用して、主イエスが詩編で言われている御方であることを語ります。私たちは、ふつう詩編8編での「すべてのものをその足の下に従わす」者を人間として受け取りますが、ヘブライ書の著者は、そうではなくイエス・キリストであると受け取ります。「わずかの間、低い者とされた」とは主イエスの十字架のことであり、その主の十字架から私たち人間を見るのです。イエスの低さにおいて人間を見て、イエスの低さゆえに私たち人間は高められるのです。言い換えれば私たちが高められるのは、栄光を受けるのは、主の十字架を抜きにしてはありえないのです。イエスの十字架の道なしには、私たちは救われることはないのです。十字架にまで低きに下られたイエスによって、罪の深い淵から引き上げられ、私たちは救われるのです。救われてそれで終わりではなく、それから私たちは聖化の道を主とともに歩みます。イエスによって清められる道が始まるのです。さらにその先私たちを待っているのは、キリストの再臨のときにある永遠の御国の成就です。十字架でもって主の道が終わりでなく、主は復活されたように私たちも復活のからだを与えられ、死の恐怖から解き放たれそ、永遠の命を受け、神の永遠の御国へと入るのです。それが私たちの人生のゴールであり、そのときこそが究極の栄光のときであるのです。

2012年01月08日「命かそれとも」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エレミヤ書21章1~10節

説教要旨:
今日の聖書の箇所は預言者エレミヤがイスラエルの滅亡を預言する箇所です。
イスラエルが滅亡するには理由がありました。それは、偶像礼拝にありました。
神によって選ばれた民であるにもかかわらず、民はヤハウエ以外の神を拝むことをしていたのです。
神は、幾度となく預言者を通して神に立ち帰るように説いたにもかかわらず、民は立ち帰ることなかったからであります。
国の滅亡は神の裁きでありました。しかし神は非情にもそうなされたのではありません。
民の立ち帰りを期待し、そうなされたのであります。そこまでせざるをえなかったほど民の偶像礼拝は、とても深刻に神の目には映っていたのです。
国の滅亡が今の神の意思であるゆえ、バビロニアに抵抗するのではなく、降伏することが命の道であることをエレミヤは語ったのであります。エレミヤがそのように語ることはまことに辛く苦しいことでありました。でもエレミヤはあえて語らざるをえませんでした。
語られた民の側では、依然としてエレミヤの言葉を受け入れることはありませんでした。なぜならエルサレムの不滅神話を信じていたからです。神の都エルサレムは敵から守られるはずであると信じていたからです。
そこでむしろエレミヤの言葉はうそであると見なし、迫害したのです。エレミヤの語る道は死の道であると考えたのです。
その結果は国の滅亡であり、バビロニアに徹底抗戦した民はすべて殺されることとなったのです。エレミヤの預言が真実となったのです。
私たちは自分に都合の良いように状況を見、判断します。本当はそれが死の道であるにもかかわらず、そのときはそれが命の道であるかのように錯覚してしまうことが多いのです。神の道、命の道は必ずしも私たちの願う道とは違います。
この一年、私たちは神の御言葉に信頼し、御言葉に忠実に歩む者でありたい。たとえそれが苦難の道であっても。