2012年09月16日「誰に対しても」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィレモンへの手紙8~22節

説教要旨:
パウロは奴隷のオネシモを回心へと導きました。そこには福音の力が働いていますが、パウロの姿勢も関係しています。パウロは奴隷オネシモに対してまことにすごいことを言っています。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(10節)、「わたしの心であるオネシモ」(12節)、「奴隷以上の者、つまり愛する兄弟」(16節)、さらには「オネシモをわたしと思って」(17節)など、当時の社会にあって奴隷に対して言えるような言葉ではないのです。
それをパウロは言っているということは、パウロは自分をオネシモよりも低いところに置いたから言えたことであります。決して上から目線で福音をパウロは説いているのではないのです。
パウロは自身を「罪人の頭」と表現しています。頭はふつうは一番高いところに位置する者に与えられるものですが、逆にパウロにおいては、罪人の頭ですから、最も低いところに自分を位置づけているのが分かります。そのように自分を位置づけなければならない理由がパウロにはあります。それはパウロの過去です。回心前のパウロは、徹底的に激しく教会を迫害しました。それが回心後キリストの福音を宣べ伝えるものになった。そうであるから、宣べ伝える相手には、徹底的に低くならざるを得なかったのです。それはたとえ奴隷であってもです。
奴隷は社会の最底辺に置かれたものです。それよりももっと低い位置にパウロは置いたのです。
そのことで福音に心を閉ざしていたオネシモが心を開き、福音を受け入れるものとなったのです。
ここで私たちはパウロよりも低いところにいる御方に目をとめたい。この御方がなければ、パウロは救われなかったのです。その御方はイエス・キリストです。
キリストはパウロ以上に誰に対しても低いところに立たれた御方です。
その御方の低み(十字架)によって、私たちは救われ、高められるのです。社会の底辺に位置するオネシモもキリストによって高められるのです。キリストによって高められることから漏れる人は誰もいません。
どんな罪人もキリストによって高められるのです。