2012年09月02日「ただ神の恵みによる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章1~11節

説教要旨:
今日の箇所には、キリスト者の歩むプロセスが書かれています。
私たちはキリストを救い主として信じる前は、1~3節にあるような者でありました。
すなわち神に背き、自我の赴くままの生活でありました。
それは神の怒りを受けるに価するものでありました。
神の怒りの前に滅ぶべき者であったのです。
それがキリストの十字架によって、救われたのです。
ただ神の恵みであります。神の憐れみと愛ゆえであります。
神の愛を受けるに価しない者が神の愛を受けるということはキリストの十字架ゆえであります。十字架の代価なくしてはありえないことであったのです。
私たちは十字架の死によって、罪赦されるだけでなく、新たな命をいただくようになります。
かつての古い自分は十字架で死に、新たな命を受けて、生きる者となります。
これもただただ神の恵みであります。私たちが造り出せる命ではありあません。
新たな命を受けた私たちは、次にキリストに似た者へと作り変えられる道を歩みます。
これも自分で造り変えるのではなく、キリストが聖霊において私たちのうちに住まわれることで起こってくることであるのです。
またキリストが内に住まわれることで、良い行い、良い業が生まれます。良い業は人間が作り出すというのではなく、聖霊において内に住まうキリストによるものです。
私たち人間が良い業であるという場合、その良い業は人によって違う場合があります。
ある人にとって良い業であっても、他の人にとっては悪い業であることがあります。
しかし神においては良い業は一つです。
このように見てくると、すべては神の恵みによっていることが分かります。
神の恵みによるのですから、私たちは他者に向かって誇ることはできないのです。
誇るなら、主を誇れということです。