2010年12月26日「神に賭ける人生」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書2章15~20節

説教要旨:
御子イエス・キリストをこの世に遣わすということは神にとって大きな賭けといって、いいほどのことでありました。なぜなら御子イエスの道は十字架に通じるものであったからです。十字架において私たちの罪を贖い、救うという神の意図が本当に私たちに受け入れられるのかどうか分からないからであります。
十字架によって私たちが罪を悔い改め、神へと立ち帰るかどうか分からないことで、あったからです。でもあえて神は御子をこの世に遣わし、十字架へと御子を渡したのです。
結果は世界中で多くの人が十字架での贖罪を受け入れ、救いにあずかることができました。
私たちは、この神の賭けに応答する形で、私たちの人生を神に賭けることが必要であります。
でもその賭けはこの世の賭けとは違い、100パーセント当たる賭けであります。
それも無償で当たるものであります。決して無駄な賭けではありません。当たる確立が低い賭けではありません。神はいい加減な思いで、御子を私たちのところへ贈ってくださったのではありません。
独り子イエス・キリストを十字架に渡すほどに私たちを真剣に愛しているのです。
私たちは、御子が歩まれた道を御子と共に歩む人生に賭けていきたい。その人生のゴールは永遠の御国であり、永遠の命であることを覚えたい。そしてそれは決して外れることのない賭けであることも覚えたい。神の約束は、必ず成就することを信じて。羊飼いたちはその道を歩み始めているのです。

2010年12月19日「飼い葉桶の中に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書2章8~14節

説教要旨:
神の御子イエス・キリストは、生まれたとき、飼い葉桶の中に寝かされていました。
ここにクリスマスの秘儀があります。メシア(救い主)は、飼い葉桶の中にまで私たちとともにおられることが、神の御心でありました。それがクリスマスの出来事です。
私たちは、神のごとくならんと、神へと上昇しようといたします。でもそれは無駄な企てあります。
そのような者を打ち砕くのが神の御心であります。神の御心は飼い葉桶にまでへりくだることであります。飼い葉桶という神のへりくだりに神の栄光があるのです。
そしてその神のへりくだりと共に生きようとする人々に平和あれということがクリスマスのメッセージであります。
この世界には、権力者はじめ、多くの人の驕り高ぶりが満ち満ちています。平和は驕り高ぶり、傲慢な心からはやってきません。飼い葉桶の中の御子イエス・キリストの姿に平和の秘儀は潜んでいるのです。
私たちは飼い葉桶のメシア=イエス・キリストに合わせられて、へりくだって主が歩まれた道を共に歩んでいこうではありませんか。

2010年12月12日「恵みのとき」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書1章26節~38節

説教要旨:
今日の箇所はいわゆる「受胎告知」と呼ばれている箇所であります。
天使からメシア=救い主を宿すといわれて、マリアは当惑します。当惑すると同時、苦悩が始まります。まだヨセフとは婚約中の身でありながら、子を宿すということは、ヨセフの子ではないとの疑いをヨセフに抱かせるに十分なものでありました。
マリアに対する不信の心をヨセフに芽生えさせていくことになる事柄であります。
また世間からも白い目で見られることの覚悟を必要としました。さらには最悪の場合、姦淫の罪で石打ちの刑に処せられることも覚悟することでありました。
ですから当初はとても喜ばしいことだとは思えなかったのです。
むしろ今後のことを考えたら相当の苦難を覚悟する必要さえあったのです。
でも最終的に天使のお告げを神の御心として受け入れていったのであります。
当初はとても神の恵みとして受け入れることができないマリアでありましたが、メシアを宿すことが神の御心であると納得し、受け入れていったのです。
私たちも当初恵みであるとは分からずに、いやむしろこんなの恵みではないと思い、神につらく当たることがありますが、それがたとえ苦難を伴ったものであっても神の御心としてあると分かると、恵みとして受け入れていくことができます。
またそのときは、こんなの恵みではないと反抗していても、後から振り返ってみると恵みであったなあと思うことがあるのではないのでしょうか。
私たちはそのときどきにおいて、これが恵みであるとはなかなか分からない者でありますが、そこに神に御心があるなら、それはやはり恵みであるのです。神の御心は私たちの思いを超えて働き、当初マイナスに見えることも最終的にはプラスへと変えてくださるのです。
神の恵みとはそういうものであることを覚えたい。目先のことだけで判断できないのです。

2010年12月05日「メシアはイエスか」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書11章2~14節

説教要旨:
獄中にあって苦難を負えるバプテスマのヨハネは主イエスに問います。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」。
この問いの背後にはヨハネの信仰の迷いと揺れがあります。自分はナザレのイエスはメシアである信じ、その道備えをしてきたが、果たしてイエスは本当にメシアであるのだろうかという疑問であります。何故自分を救いに来てくれないのかという問いであります。
主イエスは答えます(5節)。そのイエスの答えはすべてイザヤ書からの引用であります。預言者イザヤを通して預言されたことが今主イエスにおいて実現しているではないか。どうしてあなたは信じられないのか。主イエスにつまずかない人は幸いである。
ヨハネは獄中の苦難の中にあって、イエスをメシアとして信じたいが、信じきれないところがまだ残っていたのです。それは自分が獄中にいるままで解放されていないからです。メシアの道備えをしてきた自分がどうして獄中で死ななければならないのか。一刻も早く獄中から出られるようにしてくれてもいいではないか。
このようなヨハネの状態は私たちの状態でもあります。それは洗礼を受ける前にもありますし、洗礼を受けたあとにおいても起りうる状態であります。
それは苦難の中にあるとき、苦難がなかなか解決されないとき、苦難に耐え切れなくなるとき、起こりうることであります。
メシアはどこにおられるのか。すぐにでもメシアが来て自分を救ってほしい。それは切実な願いであります。
でもメシアは来られない。そこでつまずくことがあります。
私たちはここで視点を転じる必要があります。メシアが来ているかどうかということを自分のところの範囲だけで判断しないと言うことです。
目を他に転じることです。巷では多くの人がイザヤ書において預言されている癒しなどの神のみわざにあずかっていることを見るべきであるのです。
自分のところにはまだ来ていないかのように見えるが、すでに主イエスは来られている。そのことを信仰においてしっかりと見るべきである。
信仰なしには、そのことを見ることはできません。聖霊において主イエスはどこにでも臨在し、私たちの苦難を共にし、共に担い、苦難からの解放へと神の国の道を進めておられます。目には見えないけれども、密かにメシアとしてあなたのところにもやって来ているのです。