2010年12月05日「メシアはイエスか」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書11章2~14節

説教要旨:
獄中にあって苦難を負えるバプテスマのヨハネは主イエスに問います。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」。
この問いの背後にはヨハネの信仰の迷いと揺れがあります。自分はナザレのイエスはメシアである信じ、その道備えをしてきたが、果たしてイエスは本当にメシアであるのだろうかという疑問であります。何故自分を救いに来てくれないのかという問いであります。
主イエスは答えます(5節)。そのイエスの答えはすべてイザヤ書からの引用であります。預言者イザヤを通して預言されたことが今主イエスにおいて実現しているではないか。どうしてあなたは信じられないのか。主イエスにつまずかない人は幸いである。
ヨハネは獄中の苦難の中にあって、イエスをメシアとして信じたいが、信じきれないところがまだ残っていたのです。それは自分が獄中にいるままで解放されていないからです。メシアの道備えをしてきた自分がどうして獄中で死ななければならないのか。一刻も早く獄中から出られるようにしてくれてもいいではないか。
このようなヨハネの状態は私たちの状態でもあります。それは洗礼を受ける前にもありますし、洗礼を受けたあとにおいても起りうる状態であります。
それは苦難の中にあるとき、苦難がなかなか解決されないとき、苦難に耐え切れなくなるとき、起こりうることであります。
メシアはどこにおられるのか。すぐにでもメシアが来て自分を救ってほしい。それは切実な願いであります。
でもメシアは来られない。そこでつまずくことがあります。
私たちはここで視点を転じる必要があります。メシアが来ているかどうかということを自分のところの範囲だけで判断しないと言うことです。
目を他に転じることです。巷では多くの人がイザヤ書において預言されている癒しなどの神のみわざにあずかっていることを見るべきであるのです。
自分のところにはまだ来ていないかのように見えるが、すでに主イエスは来られている。そのことを信仰においてしっかりと見るべきである。
信仰なしには、そのことを見ることはできません。聖霊において主イエスはどこにでも臨在し、私たちの苦難を共にし、共に担い、苦難からの解放へと神の国の道を進めておられます。目には見えないけれども、密かにメシアとしてあなたのところにもやって来ているのです。