2010年08月29日「福音を恥とせず」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ローマの信徒への手紙1章16~17節

説教要旨:
パウロは「わたしは福音を恥じとしない」と言っています。
その理由として「信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と語ります。
神の力であるから、恥としないのです。逆に言えばもし人間の力であるなら、恥であるといえます。
神の力と並んで人間の力が必要であるなら、福音とはならないのです。
福音は徹頭徹尾他力本願であるから、福音(喜ばしい訪れ)であるのです。
私たちの努力や修行で救いを得るものではないのです。では何によって救いを得るのか。それはキリストの十字架によるのです。神から差し出されているキリストの十字架を受け入れるのです。イエス・キリストが私たちの罪の贖いのために、私たちに代わって十字架につくことで、私たちの罪は贖われ、赦されるのです。ただただ神の恵みによるのです。
それが福音であります。パウロはかつて自力本願による救いを追求していました。でもそこに平安はなかったのです。どれだけ努力すれば救いに到達するのか。どれだけ修行すれば救いに到達するのか。
それが分からないということは不安になります。そうではない、ただ十字架の恵みを信じ、受け入れなさいとの福音によってパウロは平安を得たのです。
さらにパウロは「福音には、神の義が啓示されています」と語ります。
神の義とは何でしょうか。神の正しさであります。神の正しさは福音に啓示されているのです。
福音を言い換えれば、キリストの十字架であります。神の義は十字架に啓示されているのです。
神との不義なる関係に立つ私たちは、本来なら神によって罰せられてもおかしくないのですが、
神はそれをせず、代わりに愛するひとり子イエス・キリストを十字架に渡し、私たちの罪を贖われたのです。
神の義がここにあるのです。救いがあるのです。ですからパウロは「福音=十字架を恥としない」と言っているととることができます。恥としないどころが十字架を誇る者であったのが、パウロであります。
なぜならパウロの人生は十字架によって180度転換し、十字架の恵みのもと喜びと平安に満たされ生きることができたからなのです。

2010年08月22日「神殿としてのキリスト」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ヨハネによる福音書2章13~22節

説教要旨:
今日の箇所はいわゆる「宮清め」と呼ばれる物語です。
エルサレムにある神殿を主イエスは清められたのですが、当然清めるだけの理由がありました。
それは当時の神殿信仰に問題がありました。
ただ単に神殿を商売の家にしているからという理由だけでなく、神が住まう場、神と出会う場としての神殿が形骸化していたという
点にあります。主イエスの神殿を思う熱意が宮清めを行わせたのです。
そして主イエスは神殿の本来の意味を回復されようとされたのです。
そしてその回復はエルサレムの神殿にあるのではなく、主イエスご自身が神殿そのものであるという点にあります。
私たちは主イエスという神殿を通して、神と出会い、神の恵みを受けていくのです。
主イエスの体がエルサレムの神殿に代わる真の神殿であり、その主の体の具体的現れとしての教会であるのです。

2010年08月15日「徴税人のように」渡辺敏雄牧師

説教箇所:ルカによる福音書18章9~14節

説教要旨:
今日の主イエスの譬え話は、私たちにとって大いなる慰めであると同時に自らの信仰を反省する譬え話であります。
譬えでは、ファリサイ派と徴税人というまことに対照的な人物が描かれています。
ファリサイ派の人々は律法に厳格に生きた人々であり、当時の社会の尺度から見れば、立派な人でありました。一方の徴税人は律法を守ることができない人であり、またローマ帝国への税金を取り立てていた人であり、ユダヤ人社会からは蔑まれ、嫌われていた人でありました。
しかし主イエスは義とされたのは徴税人の方であると言われます。どうしてでしょうか。
それはファリサイ派の人の祈りに、それはまたその生き方に問題があったからです。
その問題とは、律法を守れない者を低めることで、蔑むことで、自らを高くし、誇るところにあったのです。
それは自己義認による義の主張であります。
一方の徴税人はそうではなく、神の御前にへりくだり、自らの罪を認め、神の憐れみを祈り求めるしかないものとして立っています。その信仰が神によって義とされたのです。
私たちは徴税人のように自らを低くするものでありたい。
そのことで神によって高められるのです。

2010年08月08日「恐れることはない」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書14章22~33節

説教要旨:
私たちの日常生活において恐怖はつきものです。
恐怖とは無縁の生活を望みますが、なかなかそうはいかないのが私たちの現実であります。一体私たちは恐怖から自由になれるのでしょうか。
今日の箇所でペトロも恐怖を抱いています。一つ目の恐怖はイエスを幽霊だと思ってしまったことによります。2つ目の恐怖は強い風を感じて、恐怖を抱きました。
注目すべきはどちらの恐怖も主の御声によって恐怖から自由になっていることです。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」との主の御声によって最初の恐怖は取り除かれています。そして次に彼は、主イエスのところへ湖の上を歩いていくと、強い風が吹いている
ことに気づき恐怖を感じ、沈みかけます。そのとき、「主よ、助けてください」と叫びます。
主イエスは言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。
この御声によってペトロは助けられるのです。実際には主イエスが手を伸ばしてペトロを捕まえることによって、ペトロは助けられていますが、本当の助けは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」との御声です。
叱責にように思われますが、そうではありません。
信仰の薄い者であるにもかかわらず、疑い多い者であるにもかかわらず、主は助けられるのです。「主よ、助けてください」と主に助けを求めるとき、主は信仰の篤い者、信仰の薄い者のいかんにかかわらず、助けられるのです。
ここに私たちの救いがあります。私たちはペトロと同じように信仰の薄い者であり、神への疑いもまたもつ者であります。恐怖から自由になることができない者であります。
そんな私たちでありますが、私たちに恐怖が襲うとき、「主よ、助けてください」と叫ぶなら、主は助けてくださいます。
そして御声をかけてくださいます。「安心しなさい。恐れることない。信仰の薄い者よ。でも私はあなたを見捨てない」。

2010年08月01日「新しい戒め」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マタイによる福音書5章38~48節

説教要旨:
今日の箇所で主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と教えています。
私たちは「隣人を愛する」ということはできても、「敵を愛する」ことはできません。
少なくとも私たちに損を与えないかぎりでの隣人を愛することはできます。
でも損を与えるような隣人を愛することは難しいものです。さらに損だけでなく敵として振る舞うような人に対しては、もう到底愛することなどできないのが
私たちの現実です。敵は憎むべき対象として私たちは見てしまうのです。
でも主イエスは敵を愛しなさいと説いています。
なぜでしょうか。
それは38節以下のことと関わっています。
つまり復讐や報復の禁止と関わっているのです。
敵が自分に損害を与えたとき、私たちは報復を考えます。
それも「目には目を、歯には歯を」という同量、同等の復讐ではなく、それを超えた復讐です。
復讐を貫徹することで溜飲を下げようとするのです。
しかし復讐された相手方は、復讐をした人に対して、もっと激しい報復を考えるのです。
そのように報復の連鎖が起こり、とどまるところを知らなくなっていくのです。
その連鎖を終わらすには、敵を憎むよりも、愛することが何よりも必要であると主イエスは見たのです。
主イエスが説くところを実践しようと思い、実際に行なうとするとき、私たちは敵を愛することができない自分を発見します。そこで私たちは自責の念をもつこともあります。愛を行いえない自分に
絶望することもあります。しかし神はそんなあなたを見て、怒りを発する御方ではありません。
私たちは自らの無力を神に打ち明け、神に助けを求めるとき、神は聖霊を通して、助けを与え、御力を与え、敵を愛することができるようにしてくださるのです。
なぜなら敵と見なしている人も神の救いの対象であるからです。主なる神はすべての人が救われることを願われておられるからです。