2013年05月26日「新しい命に生きる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ローマの信徒への手紙6章1~14節

説教要旨:
今日の聖書の箇所から、パウロが説いてきた福音を誤解して理解をする人がローマの教会にいたということが分かります。
それは罪のゆるしがあるのだから、罪を犯してもいいのだ、むしろ罪を犯すことで罪のゆるしの恵みを受けるのだから、罪を犯そうではないかと考える人がいたということです。
パウロはそれは違うと言います。罪の中にとどまるべきではないと言うのです。
洗礼によってキリストに結ばれている者は罪の奴隷から解放されたはずではないかと言うのです。
それが罪の中に留まり続けるなら、依然として罪の奴隷のままのではないのかと言うのです。
確かにキリストは十字架で私たちの身代わりになって、罪を負い、罪をゆるしてくださる、だからといって、罪を犯すことに鈍感であっていいことにはならないのです。犯した罪の罪責を覚えなくていいということにはならないのです。罪を犯すことに鈍感である、罪責を感じないということは古い自分のままの姿であります。十字架に古い自分を死なせていないのです。
十字架に古い自分を死なせていないということはまだ罪の奴隷から解放されていないことになります。
古い自分を十字架につけてこそ、罪の奴隷から解放された新しい命があるのです。
罪の奴隷のままでは、まだ新しい命に生きていることにはなりません。
私たちが新しい命に生きるためには、十字架に古い自分が死ぬことが大切なことであります。
死んでこそ新しい命であります。
十字架に死んだなら、復活のキリストと共に新しい命に生きる者として神の御心に従うことを願うはずではないのでしょうか。
罪の中にとどまろうなどとは考えないのではないのでしょうか。

2013年05月19日「聖霊降臨の意味すること」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章1~13節

説教要旨:
今日はペンテコステ(聖霊降臨)日であります。
私たちはペンテコステにおいて見なければならないことは、1~4節の超自然的現象でなく、5節以下で起こっている福音宣教に関することであります。
イエスの弟子たちがギリシャ語で福音宣教を始めたということです。
イエスの弟子たちはギリシャ語など話せなかったが、聖霊を受けてから突如ギリシャ語を話すことができるようになったというのではありません。
当時のローマ帝国の共通語はギリシャ語でありました。そしてそのギリシャ語は地域、地域によって異なる訛りを伴ったものでありました。そのことが6節の「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いた」や8節の「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と記されていることです。訛りがあってもギリシャ語には違いはないのです。
イエスの弟子たちもまたガリラヤ訛りのギリシャ語を話すことができたのであります。
そのギリシャ語を用いて弟子たちは神の偉大な業を語ったのです。
しかし異様な大きな音を聞き、集まってきた人々は、ガリラヤ人がこのようにギリシャ語を話すことを目撃し、驚き怪しんだのであります。なぜでしょうか。それはガリラヤ人への偏見が背後にあるからです。
ガリラヤはユダヤにおいて辺境の地であります。田舎の中の田舎といえるような地であります。
そんなところの出身者がどうしてギリシャ語など話せるはずがあろうかという思いがあったからです。
それが実際に話している。驚き、とまどいを覚えるのも無理からぬことであります。
ヘブライ語ではなく、ギリシャ語で神の偉大な業が語られることがペンテコステに起こったということは伝道における一つの転換点がそこで到来したということを告げています。
それは異邦人への伝道の道が開かれたということです。
ローマ帝国全体へと福音が宣べ伝えられる端緒が切り開かれたことを意味しているのです。
ヘブライ語ではユダヤ人しか分かりません。そうではなくギリシャ語がペンテコステにおいて用いられたことは世界宣教への道が始まったとも言えます。
いろいろな地域に住む人たちが福音を理解するために、それぞれの地域で話されている言語が用いられていくことは大切なことであります。ローマ帝国においてはギリシャ語であります。
それ以外の地域においてはまた別の言語を用いねばならないでしょう。
実際他の地域においてはギリシャ語とは違う言語で福音が宣べ伝えられていったのであります。
今や聖書は世界のどの地域に住む人でも理解できる言語に訳されています。
そして福音を信じる人が日々起こされています。
そういう意味で2000年前に注がれた聖霊は今も注がれていると言えるのです。

2013年05月12日「母の愛と神の愛」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記21章9~21節

説教要旨:
今日の箇所には二人の母親が登場しています。
一人はアブラハムの妻サラ、もう一人は女奴隷のハガルです。
神はアブラハムとサラの間にこどもを授けることを約束しました。
ところがこの約束がなかなか実現せず、サラは違う方法でこどもを授かることを考えます。それは女奴隷ハガルとアブラハムの間で生まれるこどもが約束の子として神は意味されているのではないのかと考え、それをアブラハムの同意を得て実行することになります。そしてイシュマエルという男の子が生まれます。
しかしその後しばらくしてサラとアブラハムの間にもイサクという男の子が生まれるということが起こるのです。
そこで問題が起こります。イシュマエルがイサクをいじめる事が起こります。
サラはアブラハムに「あの女とあの子を追い出してください」と乞うのです。母親のエゴがそういう言葉をもたらすのです。
アブラハムは苦しますが、ついにサラに同意し、二人を追い出すことにします。
パンと水の革袋を与え、立ち去らせるのです。ハガルとイシュマエルには行くところはありません。
荒野へと二人は追いやられます。荒野は生きていくには厳しい環境です。
与えられた革袋の水もなくなります。荒野で水がなくなるということは命の危機です。
絶望の中、二人に死が迫ります。そんなとき、神はハガルとイシュマエルの泣き声を聞かれ命の水を用意するのです。井戸です。それはすでにあったものですが、ハガルには見えていなかったのです。
私たちは絶望の中にあるとき、周りの状況が見えなくなります。一切が暗闇であるかのように感じてしまいます。
ハガルはそういう状態でした。
神はそんなハガルに対して目を開かれます。目を開き、身近にある井戸を発見さすのです。
このようにしてハガルとイシュマエルの命は救われました。
母親の愛は偉大ですが、サラのイサクを愛する姿から限界をもったものであることが分かります。
エゴが内に含まれていることが分かります。またハガルのイシュマエルに対する献身的な愛も、限界をもったものであることが分かります。ハガルは愛するイシュマエルの命の危機に、ただ泣くしかありませんでした。
人間の愛のエゴと限界を突破していく御方が神であることを今日の箇所から学びたい。

2013年05月05日「聖霊の時の始まり」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録1章3~9節

説教要旨:
クリスチャンの歴史認識は世俗の歴史認識とは異なる面があります。
それは終末信仰:キリストの再臨信仰に由来します。
今私たちが生きている時代は中間時といえるものであり、つまりそれはキリストの十字架と復活、そしてキリストの再臨との間にある時であるということです。そしてこの世界は闇から光の世界に移されているということです。どんなに闇が深く見えようが、光が消え去ることはないのが中間時であります。言い換えれば、キリストの光のもとにあるのが中間時であります。
しかしキリストは父なる神のもとへと昇天され、この世界はキリスト不在であるかのように思われますが、そうではなく、キリストは聖霊において臨在しているのです。
そのときがすでに始まっているのです。聖霊のときが中間時の特徴であります。
聖霊においてキリストはこの世界を神の御国の成就へと導いておられるのです。
神の御国はキリストの到来とともに始まっています。しかしその完成はキリストの再臨のときを待たねばならないのです。そのときを私たちは知ることはできません。
その時は分からないが、いつか必ず来る再臨のときまでの中間時が聖霊の時代、聖霊のときであります。
しかしイエスの弟子たちは、このことが理解できていませんでした。
キリストが復活されたからには、御国の完成はすぐにできるはずであると期待したのです。
そして御国はこの地上において完成されると誤解していたのです。
この地上で完成された暁には、自分たちはそれ相当の地位につけるはずであると思っていたのです。
しかし神の御国はこの世の国の基準でもって測れるものではありません。
あくまで霊的な国です。目には見えない霊的な国が神の国です。
キリストがローマ帝国を倒して、自ら王となり、自分たちを大臣にすることを期待していたのですが、キリストはこの世的な制度をもった国を説いたのではなかったのです。
聖霊が支配する国、聖霊の支配が行われる場が神の国です。
弟子たちに聖霊を注ぐことで、聖霊の支配が行われるときが開始されることをイエスは弟子たちに諭したのでした。私たちはこの聖霊の時を生きています。
ゆえにますます聖霊の注ぎを祈り求める者でありたい。私たちに聖霊が注がれれば注がれるほど、この世界に対する聖霊の支配は強まり、広がり、御国は前進するのです。