2012年08月12日「神のわざと人間のわざ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書7章36~50節

説教要旨:
今日の聖書の箇所では、2人の人物がイエスと出会っています。
一人はファリサイ派のシモンです。彼はファリサイ派であるにもかかわらずあえてイエスを家に迎え入れました。相当の決断であります。
よほどイエスに関心をもっていたことでしょう。そのイエスへの関心は律法にあると言っていいでしょう。ファリサイ派にとって律法は命と言っていいほどのものです。しかしイエスの律法理解はかなりファリサイ派とは違ったものであったので、一度真意を確かめたかったのかも知れません。
しかしイエスの話を聞く前に、一人の罪深い女が家に入ってきます。
そして思いもかけない行動を取るのです。「イエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(38節)のです。ファリサイ派のシモンはこの女がどういう女であるか知っていました。
ですから女の行動をなすがまま受け入れているイエスを心の中で詰るのです。イエスの受け入れは容認できないのです。
シモンなら、当然女の行為を受け入れる余地はありません。罪深い女と接触することは自分もまた穢れると思っていたからです。そんなシモンに対してイエスは譬え話をもって語ります。500デナリオンの借金を負った人と50デナリオンの借金を負った人の話です。
どちらもその借金を返すことができない状態でした。しかし金貸しは二人とも借金を帳消しにしたのです。金貸しは神です。借金とは罪を言い表しています。私たちは皆神に対して借金(罪)を負ったものであります。
そしてその借金は額の大小によらず、返すことができないのが現実であるのです。
にもかかわらず帳消しにされた(罪ゆるされた)のです。
ファリサイ派シモンの考えでは、50デナリオンぐらいなら自力で返せると思われる額です。
その額は自分が負っている借金であると考えたかもしれません。シモンは自分には罪がないとは思ってはいませんが、罪深い女よりはずっと少ない額の借金であると思っていたことでしょう。
女は500デナリオンもの借金を負っているのだと考えたことでしょう。
しかし50デナリオンという額の借金ですら、本来は自力で返せるようなものではないということをシモンは知るべきでありました。人間のわざで返せる額であるとのシモンの考えをイエスは打ち砕きます。50デナリオンであれ、500デナリオンであれ、神によってでしか帳消しになることはないのだとシモンは知るべきであったのです。
私たちはシモンのように少ない額の借金しか神にしていないと思うよりも、とてつもない額の借金をしている者であることを自覚することが大切です。破産状態にあると思うことです。しかし喜ぶべきかな、神はすべてゆるしてくださった。その喜びから神への限りない愛の思いが、また行動が生まれてくるのではないのでしょうか。