2012年05月06日「主イエスを心に」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書15章10~20節

説教要旨:
今日の聖書の箇所でイエスはファリサイ派の人たちを批判しています。
彼らの信仰を問題にされています。
イエスは「口から入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである」(11節)と言っています。ここでイエスは律法の中にある食物規定を問題しています。ファリサイ派の食物規定を一字一句そのまま守ろうとする堅くなさに対して、異議を唱えています。
そんな食物規定を厳格に守るよりも、あなたたちの心の中にあるものが口から出てくることで人を汚すのだということに思いを致せと言うのです。
このイエスの言葉にファリサイ派の人たちはつまずいたと言われています。
彼らが大事だと思っていた律法厳守が批判され、彼らの心が問題にされているからであります。
口から出てくるものとは具体的には言葉であり、行為であります。その言葉や行為の背景にあるのは私たちの心です。私たちの心が濁っていれば、良い言葉や良い行いは出てきません。
心が澄んでいれば、良い言葉や良い行いが出てきます。
イエスはファリサイ派に対して、あなたたちの心は濁っているにもかかわらず、自分たちはそうではない清いのだと驕り高ぶっているから、駄目だのだと批判しているのです。
彼らの清さの基準は律法をどれだけ厳格に守っているかどうかという点にあります。
それに対してイエスはそんなのは神の清さではない、神の清さは心にあるといわれているのです。
私たちの心は誰でも罪で濁っています。清いものなど誰一人いません。
では私たちが清さを得るにはどうしたらいいのでしょうか。私たちは自らの力で清くなることができるのでしょうか。できません。濁った水が自らの力で澄んだ水になることができないのと同じように、私たちの濁った心を自分の力で透き通ったものにすることはできないのです。
私たちの心は神によってしか清くなれないのです。
私たちの心に主イエスを迎え入れることでしか私たちは清くなることはできないのです。