2012年03月04日「扉よ、開け」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書7章31~37節

説教要旨:
今日の聖書の箇所に登場してくる人は耳が聞こえず、舌の回らない人でありました。
その人を人々はイエスのところに連れてきたのです。彼は連れられて来たのです。自分の積極的な意志で来たのではないのです。彼はいやいや半ば強制的に連れられてきたのです。
なぜでしょうか。そこには彼の神に対する憎しみや敵意というものがあったからです。
当時の支配的な考えに因果応報思想というのがありました。その考えによると、彼の負っている苦難は彼が過去に犯した罪の罰としてあるというものです。でも彼には今受けている苦難を受けるに価するだけの罪を犯した覚えはないのです。もし神が因果応報の神であるなら、そんな神に対して彼は憎み、敵意すら抱くのではないのでしょうか。
そのような彼をイエスは受け入れていきます。イエスは「お前は神を信じていないだろう。敵意する抱いている。そのようなものを自分は癒すことなどできない」と彼を退けたのではないのです。
イエスは敵意すら抱く者をも受け入れ、癒しの御業をなさるのです。
イエスは彼と神との間にある憎しみと敵意という厚い扉を開け放とうとされるのです。
神の側からしかその扉は開けられないからです。
彼の方で進んで扉を開けるなどということはできないほどに神は憎まれているのです。
彼の心は全く閉ざされていたのです。そんな彼のところにイエスは行き、扉を開ける。
私たちの人間関係において、自分に敵意を抱いている者の心の扉を開けることは、至難のわざであります。その至難のわざがイエスにおいて起こったのです。
それはただ愛によってのみ起こりうるものであります。
イエスはその生涯、愛によって人々の心の閉ざされた扉を開け続けていった御方であります。
私たちもイエスによって開かれねばならない心の状態にいつなるかもしれません。
そんなときイエスの御声「エッファタ、開け」を聞きましょう。