2012年03月11日「ユダとペトロ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書26章14~25節

説教要旨:
今日の箇所はユダの裏切りの場面であります。
イエスの弟子たちの中からイエスを裏切る者が出るということは、イエスの力について疑問をもたれるところであります。
12弟子はイエス自ら選んだ弟子たちであります。その選びが間違っていたのか。
イエスは選ぶ段階で弟子の裏切りを見抜けなかったのか。
イエスの神性に疑問符がつきかねないことであります。
しかしイエスが無能であったから、裏切りが起こったのだと結論づけるには無理があります。なぜなら裏切りは旧約聖書において預言されていたことであるからです。預言は成就すべきものであります。誰かが裏切りの役を担わなければならなかったのです。そのことをイエスは知った上であえてユダを選んだのです。ユダは過酷な運命を選ばれる段階で、いや生まれながらにして担わねばならなかったのです。
神のご計画の中でユダの裏切りは起こります。ユダにはどうしようもないことであったのです。確かにユダの側では自分の意志でイエスを売り渡したと認識していたことでしょう。その証拠に彼はあとでイエスを売り渡した罪を懺悔しています。
しかし神の側では予定の出来事であったのです。
そんな裏切りの役を担った(担わされた)ユダは救われるのでしょうか。
ユダの裏切りの責任を問うことが私たちにはできるのでしょうか。
できないのではないのでしょうか。誰もがユダの役目を担う者として一方的に選ばれるなら、誰もがそんなことは御免蒙りたいと思うことでしょう。であるなら、私たちは正義感からイエスを裏切るユダはゆるせないと言って一方的に憤ることはできないでしょう。
むしろ神を責めるのではないでしょうか。ユダもまた自分を選んだ神を責めることでしょう。
どうして他の者を選ばなかったのかと。
神は、私たちのその責めを十字架で負われたのです。
イエス・キリストが十字架で責めを負われたがゆえに、ユダの裏切りの罪は贖われ、赦されうるのではないのでしょうか。