2012年04月15日「散らされて生きる」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:創世記11章1~9節、マタイによる福音書28章16~20節

説教要旨:
創世記11章のバベルの塔の物語では、民は神によって全地に散らされます。
このことは神の裁きとしてあるように見えますが、一方では神の恵みでもあるのです。
それは創世記1章28節の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の祝福が実現していく方向性をもっているからであります。散らされることなしには人類は全地に満ちることはできないのです。
しかし散らされることで互いの言語が違ってきます。言語の多様性が生まれます。
しかし一方では同じ言葉で話し、理解し合うということができなくなります。
またそこに違う民族が生まれます。人類の多様性が生まれます。
確かに言語が違うということは意志疎通において困難さが生じます。
しかしそこに互いに理解し合おうという意識も生まれます。相手の言語を理解しようとする努力が生まれます。
同じ言語ですとそういう努力を私たちはしません。
このように考えれば、決して散らされるということはマイナスばかりではないのです。
そのことをプラスに考えることも大事であります。
神がバベルの塔の物語を通して私たちに指し示していることは、私たちが同質的なものであることは決して好ましいことではないということであります。
私たちは異質なものを含んだ多様性において生きるものであることです。
神によって全地に散らされた多様性に富んだ者がまとまりなくばらばらになって、互いにいがみ合い、争い合い、殺し合うのではなく、一つとなるためにイエス・キリストは来られたのです。クリスチャンは世に先駆けてキリストによって集められた者たちであります。
集められてキリストにあって一つとなった者たちであります。
そしてキリストによってこの世へとまた散らされて(派遣されて)、福音を証ししていくものであるのです。