2012年12月16日「来るべき救い主」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書9章1~6節

説教要旨:
今日の箇所はメシア(救い主)預言と言われている箇所です。来るべきメシアはどのような御方であるかを告げています。
5節では「ひとりのみどり子が私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた」と預言されています。
預言が過去形をとっているのですが、それは神の約束は必ず実現するゆえに、それは未来において起こる出来事であっても、すでに起こったこととして言われるのです。
それは「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と言われているように、メシアを私たちに与えてくださることは神の熱意からです。神はこのままでは私たちは滅んでしまうと思い、私たちを救わんとしてメシアを与えてくださるのです。
そのメシアは「驚くべき指導者」と言われています。英語ではカウンセラーと訳されています。
ここにメシアの姿が映し出されます。独裁的な指導者ではないということです。相談相手となってくれるような指導者です。独裁者はそうはいきません。相談した結果、機嫌を損なわれてはどうしようもありません。
命を取られるかもしれません。そういう指導者ではないのです。また世間で言われるカウンセラーでもありません。
指導者ですから、相談に乗った人の行くべき道を示してくださる御方です。神は私たちのことすべてをよくご存知ですから行くべき正しい道を示してくれるのです。
さらに力ある神であり、平和の君であるといわれています。
力あるとはどういう力でしょうか。軍事的な力でしょうか。暴力的な力でしょうか。そうではありません。
愛の力です。愛において神は力ある御方であるのです。神は愛をもって敵対する者を克服し、その者との平和を作り出すのです。
イエスは「汝の敵を愛しなさい」と山上の説教でいわれました。
しかしイスラエルの民は、このメシア預言を軍事的な力あるメシアとして受け取りました。
軍事力によって敵を圧倒し、打ち負かし、勝利を収めることで相手との平和を実現するメシアを期待したのです。
ゆえに主イエス・キリストに、また主の十字架につまづいたのです。
私たちは待降節の歩みにおいてどのようなメシアを待つのでしょうか。