2013年07月07日「まことの平安」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書44章6~23節

説教要旨:
22節「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」と言われています。
「贖った」と過去形で訳されていますが、実際には未来におけるキリストの贖いのことも含め言っているのです。イスラエルの民はバビロン捕囚において偶像礼拝という過去の罪を悔い改めました。
偶像礼拝ゆえに国が滅んでしまったことを悔いました。そのことを神は良しとされ、罪は贖われたのです。
しかし、それで故郷であるカナンの地に帰れば、平安を得ることができるかとなると、そうではないのです。その後のイスラエルの歴史を見れば、そのことはいえます。
彼らはまことの平安を得ることはできなかったのです。
イザヤが言う「わたしはあなたを贖った」という深い意味はキリストにあります。
私たちはこの地上のいかなる地においても、平安を得ることはできないのです。
どんなに素晴らしい故郷であったとしても、そこに真の平安はありません。
ましてや偶像などにはありません。イスラエルの過去の歴史は偶像礼拝の歴史でもあります。
民は偶像にまやかしの平安を見出していました。でもそこには心からの平安はありませんでした。
神はイザヤを通してまことの平安の道を示します。それはキリストです。
私たちはキリストにこそ平安を見出すべきであるのです。
キリストが私たちのすべての罪を贖う御方であるからです。
私たちの不安の根源には神との関係があります。神との関係が不和であるとき、私たちは平安を得ることはできません。言い換えれば罪があるとき、平安がないのです。
私たちと神とを隔てる罪が神との和解を邪魔しているのです。この罪が贖われなければ、処分されなければ、処分され神との和解が果たされなければ、私たちには平安は訪れないのです。その罪を贖う御方、和解させる御方がイエス・キリストであるのです。
私たちはこのイエス・キリストを通してしか本当の平安を得ることはできないのです。