2009年6月21日「自由な生き方」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙3章1~14節
7、だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。
9、それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。
11、律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。
14、それは、アブラハム与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちか、約束された"霊"を信仰によって受け るためでした。

説教要旨

今日の箇所は私たちが生きる上で大切なことが言われています。
それは自由であることの大切さです。自由は決して放縦ではありません。自由には責任が伴います。聖書における自由はキリストにある自由であります。キリス トに対しての私たちの責任を全うしていくところに真の自由があるのです。

その責任を果たす上で聖霊が必要となるのです。聖霊抜きで果たそうとするとき自由は失われます。窮屈な生き方が生まれます。パウロがガラテヤの教会 の人々を批判するのは、キリストへの責任ではなく、律法への責任になっていることであります。
律法の奴隷になってしまっている上、聖霊抜きで律法を全うしようとしていることでキリストにある自由が失われてしまっていることでありました。キリストは 十字架において律法の奴隷から私たちを解き放ち、キリストのもとに生きる自由を与えてくださいました。

しかしこの自由をガラテヤ教会の人々は律法へとあずけてしまったのです。私たちもさまざまなものにキリストにある自由をあずけてしまうことがありま す。この世で支配的な考えや価値観、風潮などに自らをあずけ、そのもとで右往左往しながら生きているときがあります。
そんなときキリストが見えなくなっています。私たちが合わせるべき物差しはイエス・キリストです。この世の物差しかイエス・キリストの物差しか、その選択 において私たちの自由な生き方も左右されることを覚えたいと思います。