2011年09月18日「イエスはどこから来たのか」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書7章25~44節

説教要旨:
キリストがどこから来たのかを知ることはイエスがメシアであることを知ることでもあります。
ファリサイ派の人々はイエスの肉的な出身地は知っていました。それはベツレヘムややガリラヤでありました。
でも本当のイエスの出身地を知ることができなかったのです。
イエスは神から来ていること、そして人々を救うために来ていることを知ることはなかったのです。
神から来ていることを知らないから、メシアとしてイエスを認めることができず、またどこへということも分からなかったのです。
私たちは「どこから」と「どこへ」という問いの間に生きているといえます。
その問いは私たちのアイデンティティーにかかわることだからです。
「どこから」は母の胎からとか生まれた場所や以前に住んでいた土地を答えることでしょう。
しかし「どこへ」となるそうはいきません。究極の「どこへ」は死の時にやってきます。
元気で生きているときは、「どこへ」という問いに答えることができる場合がありますが、死のときには、明確に答えることができるでしょうか。
明確に答えることができる場合は、イエスを神から来たメシアであることを知り、受け入れるときです。
神の御子イエス・キリストは私たちの救いのために十字架で死んで、3日目によみがえりたもうた。そして40日間弟子たちの前に現れ、そして父なる神のもとへと昇られた。何のためか。私たちのために天に永遠の住まいを用意するためであります。
ですから死んだ後に私たちはどこへ行くのかとの問いはイエス・キリストにおいて明らかにされているのです。
イエスをただの人間として見ているかぎり、メシアとして信じられないなら、死後「どこへ」という問いは、宙に浮いた状態になってしまうのです。イエスをメシアとして信じるとき、私たちの「どこから=神から」も「どこへ」という問いも真に解決するのです。