2011年09月11日「信仰の転換」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録17章16節~34節

説教要旨:
パウロが生きた当時のアテネは偶像の神々に満ちていました。
それは今日の日本の姿でもあります。どうしてこうも多くの神々が生まれるのでしょうか。
それは人間を中心にして考えていくとそうなるのです。私たちは自分にとって都合のいいものを欲しがります。しかしそれを手に入れることが自分の力ではできないとき、他力本願になります。
その他力本願も人間の力では、無理となりますと、人間を超えた神を求めることになるのです。
そして様々な願望と欲望を満たすために、そまざまな求めに応じた神々が造られていくのです。
それらの神々は実は人間の願望が投影されたものであり、神への信仰というよりも、自分への信仰でしかないのです。自分が神になっていると言ってもよいものであります。
聖書の神はそうではなく、人間がいなくても存在する神です。人間が神によって造られるはるか前から存在する神です。その神によって私たちは皆知られているのです。
私たちが神を知る前から神は私たちを知っているのです。
この信仰は信仰におけるコペルニクス的転換を意味します。地球(自分)が中心であり、その周りを太陽(神)が回っていると考えから、太陽(神)の周りを地球(自分)が回っているのだと知るような事柄であるのです。
神が主体であり、人間は客体であります。私たちは神によって自分は一体どういう者であるかをはじめて知るのです。
聖書で悔い改めとは方向転換することです。いままでの神が客体で、自分が主体であるとの生き方から方向転換して神が主体であり、自分は客体であることを知り、また神が絶対であり、自分という存在はこの地上では相対的な存在であることを認め、その神の前に忠実な僕として謙虚に生きることが求められているのです。