2013年03月10日「十字架のもとに立つ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章1~11節

説教要旨:
今日の箇所で、律法学者やファリサイ派の人たちは悪意をもってイエスのところへ姦通の現場で捕らえてきた婦人を連れてきます。そしてイエスを試します。
律法では姦通の罪の女は石で打ち殺せといわれているが、イエスはどう考えるかと彼らは問います。彼らは、イエスが律法の通りに打ち殺せよといえば、日頃愛やゆるしを説いているイエスの姿とは違い矛盾していると問い詰めることができ、またゆるせと言えば、イエスは律法を軽視しているけしからぬ奴であると攻撃できるのです。要するに彼らは女を手段にしてイエスを攻撃批判したいのです。
イエスはそれに対して何も答えず、地面に何かを指で書きます。
この動作はイエスが答えに窮しているからではありません。彼らの悔い改めを待っているのです。
しかし彼らはなおもしつこく問い続けるので、イエスはとうとう「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言われるのです。
この言葉を聞いて、人々は女のもとから去っていきます。それはまたイエスのもとから去っていくことでもあります。
その場に残ったのはイエスと女だけでありました。
ここで注意したいことは、イエスは「罪なき者が石を投げるがよい」と言われているだけであって、投げることのできない者はこの場を立ち去れとは言ってません。しかし人々は立ち去ったのです。どうしてでしょうか。
その場になおもいて、イエスがどうされるのか見ていても良かったのではないでしょうか。しかし彼らはそうはしなかった。
そうしなかった理由が二つあります。
まず第一に、彼らは、自分も確かに罪を犯す存在であるが、姦通のような罪を犯すほど悪い者ではないと思っていたから、女に石を投げることはできないが、またこの場に罪深い女と一緒にいることはできない、自分は女とは違う存在である、一緒にされては困るとの思いから、女のもとから立ち去ったのです。
しかし彼らも女と一緒にイエスのもとに残るべきでありました。彼らも罪人であることには変わりはないからです。
イエスのもとにあって罪のゆるしを女と同様に受けるべきであったのです。
第二に、彼らは神の子としてイエスを見ていませんので、神のみが罪をゆるすことができるとの考えのもと、イエスのもとにとどまり続けることはできなかったのです。イエスから罪のゆるしを受ける気など毛頭なかったからです。
私たち皆は主イエスのもとにとどまり続けることが必要です。罪の軽重を自分の尺度ではかり、自分の罪を他者の罪よりも軽いとみなせば、その他者とは距離を置く、その他者と交わることを避けてしまう。イエスはそんな私たちの罪ある姿を見抜いています。どちらも罪を犯したことにおいて一緒ではないのか。罪の軽重は神が決めることであるのではないのか、それゆえに神のみが罪をゆるす権威をもっているのではないのか。
自分の罪の軽重を自己査定していくことで、結局自己義認に陥っているのではないのか。
私たちは深く反省し、悔い改める必要があるのではないでしょうか。主イエスの十字架のもとに立ち続けることで、私たちはたえずそんな自己義認の罪を悔い改め、また罪のゆるしを主イエスに乞うものでありたい。