2011年01月09日「昨日、今日、明日」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの黙示録1章4~8節、22章16~21節

説教要旨:
ヨハネ黙示録1章4節、8節には「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と言い表されています。
その御方はイエス・キリストであります。やがて来られる方はかつておられた方であり、今おられる方です。
このように言われますと、不思議な感じがします。
かつて来られた方が、今おられるなら、どうしてやがて来られることなどあるのでしょうか。
すでに今来ているなら、どうして「主イエスよ、来てください」と願う必要などあるのでしょうか。
主イエスはすでに2000年前クリスマスにおいて来られています。それは旧約聖書に預言された通りでありました。主イエスは旧約で預言されたとおり、そのメシアとしての使命を果たし、父のもとへ昇られました。
今は目に見える形においては、この地上におられません。ではなぜ「今おられ」と言うのでしょうか。
それは、主イエスが自分の代わりに聖霊を私たちのところに遣わすことを約束されたからです(ヨハネ福音書14章16節)。聖霊において主イエスは私たちと共にいるのです。聖霊は確かに目には見えません。
でも聖霊は、風と同じように目には見えないけれでも感じることはできるはずです。
私たちが聖霊を信じるなら、主イエスが今共にいることを実感できるのです。
ですから聖霊において今おられというのが本当のところであります。
ではそのまま目に見えない形のままでずっとおられるのでしょうか。そうではありません。
主が再び私たちのところに来られるとき、目に見える形においてやって来られます。
そのときは、終末のときです。神の永遠の御国が成就するときです。
一切の苦難は終わりを告げるときです。
黙示録が書かれた当時、クリスチャンは激しい迫害の中にありました。ゆえに一刻も早く迫害の終わるときを待望せざるをえませんでした。主が再び来られるとき、それは迫害が終わるときです。永遠の命が実質的に与えられるときであります。そのときを願いつつ、今聖霊において共におられる主イエスに支えられ、慰められ、励まされ、勇気づけられて迫害の中生きていたのです。私たちも原始キリスト教会のキリスト者たちと同じ信仰をもって、この世の苦難に立ち向かっていきたい。