2011年10月23日「自分を無にして」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教要旨:
2節で「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてほしい」とパウロは言います。この言葉の背後には、フィリピの教会においてなんらかの対立があることが分かります。その対立を克服するためにパウロは互いに謙遜であるべきことを説きます。その説く根拠にキリストを置きます。キリストの姿を描きます。6節以下です。
キリストが私たちの救いのためにいと高きところからこの地上に降りて来られ、自らの地位と栄光を譲渡され、自分を無にしたことをパウロは示します。
それほどに神は私たちを愛しておられるのです。
では罪深いこの世の只中に私たちの救いのために来られ、罪深い私たちと共に歩まれたイエス・キリストは一体誰に自らの地位と栄光とを譲渡されたのでしょうか。
父なる神でありましょうか。いや違います。他ならぬ私たち人間にであります。私たちに神の子としての地位を譲渡されたのです。
私たちはキリストを救い主として信じることにより、神の子とされます。また神の栄光の中で最も大きな栄光である愛を私たちに譲渡されたのです。神がキリストを通して私たちに譲渡された愛を受け取るには、私たちの自我を神へと明け渡さなければなりません。
自我に代わり神の愛で内を満たしてもらうことで教会内部の対立も克服されるのです。
自我が内に満杯であると神の愛に満たされることは至難のことです。
自我が打ち砕かれるには、私たちは十字架に向かう必要があります。
十字架の死に至るまでへりくだり、従順であったキリストに結び付けられて、私たちははじめて謙遜になりうるのです。また自分を無にすることがきるのです。