2011年12月18日「聖霊による受胎」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書1章18~25節

説教要旨:
今日の箇所は、聖霊によってメシア(救い主)がマリアの胎に宿ったことが告げられています。
私たち人間の命は聖霊によって命を与えられるのですが、なぜそのことがわざわざ今日の箇所で記されているのでしょうか。
マリアが処女であったから、その処女に人間の命が宿ることは人間わざではなく神のわざ(聖霊のわざ)であることを言うためであるのでしょうか。
それもあるでしょう。
しかしもっとも重要なことは人間の胎を通って神の御子イエス・キリストはお生まれになられたということではないのでしょうか。それこそが聖霊によって宿ったと言われる大切な意味ではないのでしょうか。
主イエスは神の子であるから、人間の胎など通らなくても、この地上に登場することもできたはずです。むしろそんな無駄な時間をかけるのではなく、いきなり30歳ぐらいの姿で登場し、いきなり神の国の福音を宣べ伝えてもよかったはずです。しかしそうではなかったのです。
フィリピ書2章7節にはキリストは「自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現われ」と記されています。人間と同じ者になった、人間の姿で現われたということには、他の人間と同じように、人間の胎を通って生まれたということが含まれています。
それほどにインマヌエルの神であるのです。「神は我々と共におられる」という凄さは母の胎にまであてはまることとしてあるのです。罪深い人間の内部にまで宿ろうとされる神、それほどまで私たちと共におられようとされる神の恵み、それこそ聖霊によって宿ったと言われなければならない奇跡がメシア誕生にはあるのです。