2009年3月22日「神の子羊イエス」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章29~34節
29、その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。
30、『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである。』とわたしが言ったのは、この方のことであ る。
31、わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けてきた。」
32、そしてヨハネは証しした。「わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

説教要旨

バプテスマのヨハネは主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(29節)と言いました。
これはキリスト者にとっても大切なことであります。私たちは他の誰でもない主イエスが「世の罪を取り除く」御方であることをまず指し示すべきであるので す。

歴史的に見れば、教会は主以外のものを指し示すことがありました。世の罪を取り除く神の子羊よりも偶像的なものを指し示すことがありました。
ま た主イエスを指し示すことをしても、「世の罪を取り除く」主であることが軽んじられることもありました。

また主イエスではなく、ルターやカルヴァンを指し示すこともありました。ルターやカルヴァンはヨハネと同じように「世の罪を取り除く神の子羊」を指 し示そうとしたのです。
その後継者たちはともすればそうではなく、主イエスよりもルターやカルヴァンの権威を重んじるようなところもありました。 主イエスがルターやカルヴァンの権威に服するような面があったのです。その結果教会の分裂ということも起こりました。

私たちは主イエス・キリストの権威に服するべきであるのです。
主の権威に服するとは、私たちが人間ゆえに犯す罪を十字架の主にゆだねることでもあります。ゆだねて主イエスに罪を処理してもらうことです。
ゆだ ねることができないとき、十字架は見えなくなっていきます。主にゆだねるとき、神との和解、また人間相互の和解も起こってくることを覚えたい。