2009年3月1日「御言葉なるキリスト」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章38~42節
38、一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39、彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40、マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています が、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」
41、主はお答えなにった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42、しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

説教要旨

今日の箇所にはマリアとマルタという主イエスに対して異なった態度をとった姉妹が登場してきます。よく教会ではマリア型かマルタ型かの対立があります。両 者は引き裂かれた関係にあります。両者の対比は、マリアは聞き入るだけで何もしない、一方マルタはせっせと主に仕えているではないかという対比です。両者 は静と動という関係でよく捉えられます。ともすれば動の方が優位に立つ場合が多いのです。動かないことには何も事は始まらないではないか、座っていては何 も始まられないではないかという考えの優位です。

しかし主イエスはマリアの方を弁護するのです。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(42 節)と。
ここには聖書独特の考えがあります。神の御言葉を聴くことからすべては始まるという考えです。
天地創造も御言葉によって成りました。神の御言葉なしにはこの世界は存在しません。御言葉は私たちを創造する力、何かを生み出す力、改革する力をもってい ます。御言葉なしには私たちは新たな創造を受けることはできないのです。御言葉を聴くことなしには、私たちは力をもつことができないのです。ですからまず 御言葉です。御言葉を受けて、御言葉に押し出され私たちは行動するのです。

マリアはこのことを選んだのです。マリアなしにマルタはないのです。まずマリアのように主イエスの御言葉を聴いていくことの中で、この世の思い煩い から解き放たれた、自由にされたマルタが現れてくるのです。このようにして主イエスはマリアとマルタという両者の対立、分裂を和解させるのです。