2013年01月06日「光の中を歩む」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章12~20節

説教要旨:
イエスは「私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」と言われています。
どうしてそういうことがいえるのでしょうか。それはキリストは世の光としてすでに私たちのところに来ているからであります。
そしてクリスチャンはそのキリストの光はどんなこの世の闇にも打ち勝つ光であることを知っている者であります。
しかし私たちの周りを見渡せば闇が依然として存在していることが分かります。光ばかりの世界とは限りません。
にもかかわらず光は私たちの四方八方を照らしていることは事実であります。
照らしているにもかかわらず、その光を私たちの方で遮り、闇を自ら造ってしまうのです。
そしてその闇に気付かずにいることも多いのです。
キリストの光は闇を照らします。それは裁くためではなく、私たちが闇に気付き、闇から解放されるためであります。
私たちが光の中を歩むためであります。
このキリストの光をもつとき、私たちは滅びの道ではなく、命の道を歩むことになります。
またその道は神へと帰る道ともなります。私たちは神から出て、神によって命を与えられ、その命を生き、いつか死を迎えますが、死が最後ではなく、その先に永遠の命をいただく道がまだあります。その道を歩むにもキリストの光が必要であるのです。私たちがこの地上での生活をする上で、また御心に沿って歩むためにもキリストの光は必要ですが、私たちが出てきたところへと帰る上でも必要なのです。
ファリサイ派の人たちも、神から出てきて、最終的には神に帰る存在であることは知っていました。
しかし彼らはその帰る道を何によって導かれるのかを知りませんでした。キリストが私たちのすべての導き手であるにもかかわらず、彼らはそれを認めず、排撃したのでした。
彼らには律法こそが導き手でありました。律法がすべてでありました。律法の奴隷でありました。
律法はあくまで一つの導き手でしかありません。すべてではありません。
それだけに頼っていては命の道はまことに危ういのです。
彼らはそのことに気付いていなかったのです。
私たちはこの一年、キリストの光に導かれて光の中を歩む者でありたい。