34、だから、明日のことまで思い悩むな。明日は明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
市岡裕子姉の個人史において、特に父、故・岡八朗氏に関係した様々な苦難や試練があったけれども、
そのつど神さまが道を備え、恵みのうちに 導いてくださったことにより、現在の自分があることを証しされました。
曲名
Amazing Grace
感謝します
I know who holds tomorrow
My life is in Your hand
たいせつな人
君は愛される為生まれた
日本基督教団泉北ニュータウン教会の聖日礼拝説教要旨を掲載。
ホームページは、 https://kohituji.sakura.ne.jp/
最新の説教要旨は、こちらからご覧になれます。
そのつど神さまが道を備え、恵みのうちに 導いてくださったことにより、現在の自分があることを証しされました。
曲名
Amazing Grace
感謝します
I know who holds tomorrow
My life is in Your hand
たいせつな人
君は愛される為生まれた
今日の箇所はふたりの息子のたとえ話です。父の招きに対して異なる反応をみせたふたりの兄弟です。兄は最初はぶどう園(神の国)に行くことを拒んだのです が、あとで考え直し出かけたのです。一方の弟は最初は行きますと答えたのですが、実際には出かけなかったのです。
この弟は祭司長や民の長老たちであります。世間からは立派な人と見られているのですがバプテスマのヨハネが悔い改めを宣べ伝えても信ぜず、ましてや 主イエスを受け入れることはなかったのです。
徴税人や娼婦たちと一緒に神の国に入ることを拒んだのです。彼らは「どうしてあのような罪深い者と同じでありえよう」と思ってしまったのです。
一方の兄は徴税人や娼婦たちを表しています。彼らは最初は拒否しますが、ヨハネの悔い改めを信じ神の国(ぶどう園)へ行くことに決めるのです。
そして主イエスは、世間からは罪深い者とみられている彼らの方が先に神の国に入ると言われるのです。
しかし私たちは祭司長や民の長老たちが神の国に入ることはできないと結論づけないように気をつけたい。
主イエスは神の国に徴税人や娼婦たちが先に入ると言われているのであって、祭司長や民の長老たちがさらに後で悔い改め(方向転換)してぶどう園(神の国) に向かうなら、神の国の門は彼らに閉じられることはないのです。神の御心はすべての人が救われることです。一人でも滅ぶことは御旨ではありません。
ゆえに神は大いなる忍耐をもって、今は神に背いている人々が悔い改め、神に従うことを願っているのです。
どの人も神の救いの招きからはずれることはないのです。御国の招きから排除されることはないのです。
説教要旨
今日の箇所で主イエスから弟子たちは遠く離れています。主イエスが目には見えない状態の中で弟子たちだけで舟に乗り込み沖へと出ていきます。そこに逆風が 吹き、弟子たちは悩まされていました。
そんな窮状を主は知り、弟子たちのところへと湖の上を歩いて近づいていきます。弟子たちは主イエスを幽霊だと思い、恐怖に陥ります。主イエスを主として認 識できないのです。ここに危機はより深まります。
救い主イエスが窮地を救うために来ているのに見えないとは教会の危機であり、信仰の危機であります。そこで主は言われます「安心しなさい。わたし だ。恐れることはない。 この声でやっと主であることを知ります。
ペトロは主であると分かると「水の上を歩いてそちらに行かせてください」と申し出ます。主イエスから「来 なさい」と言われ、ペトロは舟から出て水の上を歩いていきます。
しかし強い風に気をとられ、怖くなり沈みかけます。ここでも主が見えなくなっているのです。今度は沈みかけるという、より大きな危機がペトロを襲っ ています。
強い風の方が実在する主イエスよりもペトロの心を支配しているのです。滅びへとペトロは向っています。そんな絶対絶命のペトロは「主よ、助けてください」 と叫びます。すると主は手を伸ばし、ペトロを引き上げるのです。そして舟に二人が乗り込むと風が静まったのです。
まず弟子たちは山で遠く離れて祈っている主イエスの臨在を感じることができませんでした。そして彼らの窮地を救うために近づいて来られる主イエスを 認識することができませんでした。
さらにペトロは主イエスを認識しても、強い風に心を奪われ、主イエスが見えなくなりました。しかしそんな信仰薄 いペトロを見捨てず、救おうとされた主の愛に応えて、私たちはたえず弟子たちと共に「本当に、あなたは神の子です」と告白し続けたい。主イエスは、私たち が主がいるのに主が見えない信仰の薄さにもかかわらず、私たちを救わんとされます。このことは大きな恵みであり、慰めではないでしょうか。
説教要旨
徴税人の頭ザアカイがイエス・キリストと出会う物語です。
当時徴税人はユダヤ人同胞から非常に嫌われていました。単に嫌われていただけでなく罪人 みなされていました。なぜか。それはローマ帝国の支配の下、税金を収奪し、不正な取り立てをしていたからです。
そんな社会から疎外されたザアカイ はイエスを一目見ようとしますが、背が低いため群衆に遮られて見ることができません。そこでイチジク桑の木に登りイエスを見ようとするのです。
見るだけで十分であったのですが、主イエスの方から思いがけなく呼びかけがなされたのです。それもザアカイという名前をもって呼びかけられたので す。ここに神は群衆という塊で私たちを見ているのではなく、ひとりびとりを区別して見ているということが分かります。またその区別が番号でもってなされる のではなく、固有の名前をもってなされているということは、神は私たちひとりびとりをかけがえのない者としてご覧になっておられるということです。
さらに主イエスは「ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)と言われます。世間からのけ者にされていたザアカイにとって、これは青天の霹靂であったこ とでしょう。この主イエスの御声でザアカイの回復が図られていきます。社会から失われ1いたザアカイは今主の御声によって社会へと連れ戻されるのです。
ザアカイはその突然訪れた神の大いなる恵みに応答し、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それ を4倍にして返します」(8節)とまで申し出るのです。収奪する者から施す者へとザアカイは転換したのです。
イエスとの出会いはこのような大きな転換を引き起こしていきます。ここで注目することは、ザアカイの申し出があったから、主イエスはザアカイの家に 泊まるということをされたのではないということです。
まず神の大きな恵みがあり、それを受けてザアカイの申し出があったということです。圧倒せる 恵みにザアカイは人生の大転換をしたのです。この大転換(収奪する者から施す者へ)は、神が求める人間の本来的な生き方(愛し合い、助け合う生き方)への 立ち返りであります。このようにして失われた者が回復されるのです。