2009年4月12日「信じる者になりなさい」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章24節~31節
24、12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25、そこで、ほかの弟子たちが、「私は主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手 をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
26、さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和 があるように」と言われた。

説教要旨

イエスさまは29節で弟子のトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。
よく考えてみれば、トマスは復活の主を見ただけでは信じられない、触らないと信じられないと言っています。ですから主イエスの言葉は何かトマスには不適切 なように思われます。言うなら「わたしに触れたから、あなたは信じたのか」となるはずであります。

そのようには言われなかったということは、実はトマスは復活の主に触ることをしなかったのではないでしょうか。主イエスは信じられないトマスに「あ なたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と 言われたのです。
しかしトマスはその主イエスの言葉で十分でありました。あえて触れることまでしなくても、その言葉でトマスは主イエスであることを悟ったのです。

そして告白します。「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と。
復活信仰の真髄は、見たから信じる、触れたから信じるというところにはなく、主イエスの言葉に触れ、神の御子イエス・キリストを信じるところにあるので す。 トマスは実は主イエスが言われる「見ないのに信じる人は、幸いである」との祝福の言葉を受ける側の人間に立っているのです。私たちは主イエスを目で見るこ とはできません。またそのからだに触れることもできません。しかし御言葉に触れ、御言葉に生かされることはできます。
そのとき確かに主イエスは復活し、今も生きて私たちに働いておれることを実感できるのです。