2009年4月19日「空しさの中で」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1~14節
4、既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
5、イエスが、「子たちよ、なにか食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
6、イエスは言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げること ができなかった。
7、イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

説教要旨

イエスの弟子たちは、復活の主イエスにすでに2度会っているのですが、まだ主は復活されたということに対して半信半疑であります。確信がもてないでいま す。
確信がもてないとき、復活のことに限らずいろいろなことにおいて何か虚ろなものを私たちは感じます。

特にこれからの人生、どのようにして生きていったらいいのかという問いに対して、はっきりとしたこれといった確信がもてないとき、心は虚ろでありま す。人生のすべてを賭けてきたものが失われたときは特にそうであります。
弟子たちは主イエスにすべてを賭けて生きてきたのです。それが十字架で死んでしまい、賭けてきたものが失われました。

しかしそのあと復活の主イエスが彼らのところに現われても、彼らは簡単には信じることができませんでした。復活の確信がもてないでいたのです。彼ら の心は、主イエスなきままで、これからどう生きていったらいいのかわからない空しさに支配されていました。
そんな中復活の主イエスはまた彼らのところに現われ、復活の確信へと導くのです。まさに3度目の正直という感じです。

弟子たちを復活の確信へと導いたものは、網が破れそうになるほどの大量の魚の捕獲でありました。神の圧倒せる恵みでありました。
ルカ福音書5章にもこれと似た話が記されています。おそらく弟子たちはかつてあった同じようなことがまた起こったことで、「あああのときと同じだ」と悟 り、主イエスは確かに復活したのだと確信したのでしょう。

私たちが復活の主を見失っているとき、弟子たちと同じように私たちの心は空しさに支配されます。しかし復活の主イエスを見出すとき、空しさは終わり を告げ、主は生きて今も私たちと共におられるとの確信をもてるようになり、生きる喜びと希望をもって主と共に前進することができるのです。