2009年4月5日「イエスさまは私たちの御者」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書11章1~11節
1、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2、言われた。「向こうの村に行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさ い。
3、もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐにお返しになります』と言いなさい。
7、二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

説教要旨

今日は棕櫚の日です。主イエスがエルサレムに入城された日です。入城されるに際して主イエスは子ろばに乗られたのです。これには意味があります。
まずゼカリヤ書9章9節10節と関係しています。
メシアはろばに乗ってこられるとの預言の成就としての意味があります。メシアは決して勇ましい馬に乗ってくるのではなく、戦争とは無縁のろばに乗ってくる のだということです。つまり平和の主として来られるということです。

平和の主としての主イエスに私たちは歓呼の叫び声を挙げたい。
しかし今日の箇所の群衆はそんなメシアをイエスに期待していたのではなかったのです。あくまでローマ帝国を打ち負かすような勇ましいメシアを主イエスに期 待していたのです。ですから抵抗することもなく十字架につけられるようなひ弱な主イエスに失望し、主イエスを嘲笑するような態度へと変わっていくのです。

しかし十字架の主イエスこそが、メシアであることを聖書は告げています。 群衆と同じような見方や態度をとることしかできない私たちの罪を主は十字架で贖なわれました。私たちの罪はすでに十字架の主によって担われ、贖われていま す。
その恵みに私たちはどのように応えていったらいいのでしょうか。それは罪の重荷をすでに解かれた私たちでありますから、今度は主イエスを担うということで 十字架の恵みに応えるのです。

すなわち子ろばとしての私たちの使命があります。主イエスによって子ろばのようにご用に用いられることです。
主が導くままに従っていく、そのような子ろばの御者として主イエスを担うのです。一人で担うのではなく、皆で共に担うのです。そこにキリストのからだとし ての教会があります。教会は御者であり平和の主であるイエス・キリストに従順に従うことで キリストのからだとしての教会の使命を果たしていくのです。