2011年04月10日「ナルドの壺」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マルコによる福音書14章3~9節

説教要旨:
ここに一人の女性が登場しています。彼女は高価な香油を主イエスの頭に注ぎかけるということをします。当然その女の行為に対して抗議が寄せられます。
無駄使いであるとの指摘です。同時にそれを売って貧しい人に施すことができたではないかと女を咎めるのです。私たちもこのような反応をするのではないのでしょうか。
確かに常識的にはそうであります。でも彼女のした行為の時が今問題であるのです。
もしこれが主イエスの神の国宣教の開始当時であれば、あるいはエルサレムに入る前であれば、主は女の行為を咎め、貧しい人に施すことを求めたことでしょう。
でも今主イエスは十字架を目前にしています。このときを逃せば、もう2度とこのような行為をすることはできないのです。
それゆえに主イエスは女の行為を受け入れました。さらに「良いことをしてくれた」とさえ言われたのです。
彼女の行為は十字架への準備であったのです。誰も彼女の他に主の十字架への準備をしてくれた人はいなかったのです。弟子のペトロなどは十字架を否定さえしたのです。
私たちの人生において、この機会を逃したら2度やってこないときがあります。
洗礼のときなどはそうではないでしょうか。振り返ってみて、あのとき洗礼を受けたがゆえに、今教会につながっておられる、もし逃していたら、教会につながることもなかったであろうにとの思いをお持ちの方もおられるのではないでしょうか。
私たちは洗礼のときだけでなく、毎日神のときを活かしているのかどうか問われています。