2009年8月9日「とこしえの愛をもって」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エレミヤ書31章1~6節 3、遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。
4、おとめイスラエルよ、ふたたび、わたしはあなたを固く建てる。再び、あなたは太鼓をかかえ、楽を奏する人々と共に躍り出る。
5、再び、あなたは、サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人々が、植えたその実の初物を味わう。
6、見張りの者がエフライムの山に立ち、呼ばわる日が来る。「立て、我らはシオンへ上ろう、我らの神、主のもとへ上ろう。」


説教要旨

「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛している」との御言葉は、私たちがいかなる状況におかれようと真実な言葉として臨んでいます。しかしそれを聞く 私たちはそのようには受け取れないのです。
今ある苦難を見ると、とても神の愛など信じることができないのです。神の言葉も信じることができないのです。

それが当時のイスラエルの民の思いでありました。なぜなら国は滅び、民は異教の地バビロンへと捕囚されていったのです。神の選びの民であるのに、ど うして神は私たちを見捨てたのかという思いが強くあったのです。神へのある種の絶望がそこにはありました。
そんな民に神は「とこしえの愛をもってあなたを愛している」と語られたのです。
神の愛は私たち人間から見ればとても愛することなどできない者を愛する愛です。

民がそのような苦難の境遇に置かれたのは、偶像礼拝をはじめとする民の罪があったからです。自らが招いたことであり、いわゆる自己責任を問われるこ とであります。
それにもかかわらず民は不遜にも神は私たちを見捨てた、神などもう信頼することなどできないと自ら神との契約を破ったことなど忘れたがごとく振舞ったので あります。普通ならそのような者をなおも愛するなどできないことです。

神はそうではありません。神の愛は主イエスの十字架において極まります。十字架を前にしてイエスをののしり、嘲った者に対しても、彼らの罪のゆるし を願われたのがイエス・キリストであります。
私たちの罪がいかに深く重くとも、なおも神は私たちを愛しているのです。「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」とい う言葉が主の十字架において実現しているのです。