聖書箇所:使徒言行録2章1~13節
説教要旨:
今日はペンテコステ(聖霊降臨)日であります。
私たちはペンテコステにおいて見なければならないことは、1~4節の超自然的現象でなく、5節以下で起こっている福音宣教に関することであります。
イエスの弟子たちがギリシャ語で福音宣教を始めたということです。
イエスの弟子たちはギリシャ語など話せなかったが、聖霊を受けてから突如ギリシャ語を話すことができるようになったというのではありません。
当時のローマ帝国の共通語はギリシャ語でありました。そしてそのギリシャ語は地域、地域によって異なる訛りを伴ったものでありました。そのことが6節の「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いた」や8節の「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と記されていることです。訛りがあってもギリシャ語には違いはないのです。
イエスの弟子たちもまたガリラヤ訛りのギリシャ語を話すことができたのであります。
そのギリシャ語を用いて弟子たちは神の偉大な業を語ったのです。
しかし異様な大きな音を聞き、集まってきた人々は、ガリラヤ人がこのようにギリシャ語を話すことを目撃し、驚き怪しんだのであります。なぜでしょうか。それはガリラヤ人への偏見が背後にあるからです。
ガリラヤはユダヤにおいて辺境の地であります。田舎の中の田舎といえるような地であります。
そんなところの出身者がどうしてギリシャ語など話せるはずがあろうかという思いがあったからです。
それが実際に話している。驚き、とまどいを覚えるのも無理からぬことであります。
ヘブライ語ではなく、ギリシャ語で神の偉大な業が語られることがペンテコステに起こったということは伝道における一つの転換点がそこで到来したということを告げています。
それは異邦人への伝道の道が開かれたということです。
ローマ帝国全体へと福音が宣べ伝えられる端緒が切り開かれたことを意味しているのです。
ヘブライ語ではユダヤ人しか分かりません。そうではなくギリシャ語がペンテコステにおいて用いられたことは世界宣教への道が始まったとも言えます。
いろいろな地域に住む人たちが福音を理解するために、それぞれの地域で話されている言語が用いられていくことは大切なことであります。ローマ帝国においてはギリシャ語であります。
それ以外の地域においてはまた別の言語を用いねばならないでしょう。
実際他の地域においてはギリシャ語とは違う言語で福音が宣べ伝えられていったのであります。
今や聖書は世界のどの地域に住む人でも理解できる言語に訳されています。
そして福音を信じる人が日々起こされています。
そういう意味で2000年前に注がれた聖霊は今も注がれていると言えるのです。
2013年05月12日「母の愛と神の愛」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:創世記21章9~21節
説教要旨:
今日の箇所には二人の母親が登場しています。
一人はアブラハムの妻サラ、もう一人は女奴隷のハガルです。
神はアブラハムとサラの間にこどもを授けることを約束しました。
ところがこの約束がなかなか実現せず、サラは違う方法でこどもを授かることを考えます。それは女奴隷ハガルとアブラハムの間で生まれるこどもが約束の子として神は意味されているのではないのかと考え、それをアブラハムの同意を得て実行することになります。そしてイシュマエルという男の子が生まれます。
しかしその後しばらくしてサラとアブラハムの間にもイサクという男の子が生まれるということが起こるのです。
そこで問題が起こります。イシュマエルがイサクをいじめる事が起こります。
サラはアブラハムに「あの女とあの子を追い出してください」と乞うのです。母親のエゴがそういう言葉をもたらすのです。
アブラハムは苦しますが、ついにサラに同意し、二人を追い出すことにします。
パンと水の革袋を与え、立ち去らせるのです。ハガルとイシュマエルには行くところはありません。
荒野へと二人は追いやられます。荒野は生きていくには厳しい環境です。
与えられた革袋の水もなくなります。荒野で水がなくなるということは命の危機です。
絶望の中、二人に死が迫ります。そんなとき、神はハガルとイシュマエルの泣き声を聞かれ命の水を用意するのです。井戸です。それはすでにあったものですが、ハガルには見えていなかったのです。
私たちは絶望の中にあるとき、周りの状況が見えなくなります。一切が暗闇であるかのように感じてしまいます。
ハガルはそういう状態でした。
神はそんなハガルに対して目を開かれます。目を開き、身近にある井戸を発見さすのです。
このようにしてハガルとイシュマエルの命は救われました。
母親の愛は偉大ですが、サラのイサクを愛する姿から限界をもったものであることが分かります。
エゴが内に含まれていることが分かります。またハガルのイシュマエルに対する献身的な愛も、限界をもったものであることが分かります。ハガルは愛するイシュマエルの命の危機に、ただ泣くしかありませんでした。
人間の愛のエゴと限界を突破していく御方が神であることを今日の箇所から学びたい。
説教要旨:
今日の箇所には二人の母親が登場しています。
一人はアブラハムの妻サラ、もう一人は女奴隷のハガルです。
神はアブラハムとサラの間にこどもを授けることを約束しました。
ところがこの約束がなかなか実現せず、サラは違う方法でこどもを授かることを考えます。それは女奴隷ハガルとアブラハムの間で生まれるこどもが約束の子として神は意味されているのではないのかと考え、それをアブラハムの同意を得て実行することになります。そしてイシュマエルという男の子が生まれます。
しかしその後しばらくしてサラとアブラハムの間にもイサクという男の子が生まれるということが起こるのです。
そこで問題が起こります。イシュマエルがイサクをいじめる事が起こります。
サラはアブラハムに「あの女とあの子を追い出してください」と乞うのです。母親のエゴがそういう言葉をもたらすのです。
アブラハムは苦しますが、ついにサラに同意し、二人を追い出すことにします。
パンと水の革袋を与え、立ち去らせるのです。ハガルとイシュマエルには行くところはありません。
荒野へと二人は追いやられます。荒野は生きていくには厳しい環境です。
与えられた革袋の水もなくなります。荒野で水がなくなるということは命の危機です。
絶望の中、二人に死が迫ります。そんなとき、神はハガルとイシュマエルの泣き声を聞かれ命の水を用意するのです。井戸です。それはすでにあったものですが、ハガルには見えていなかったのです。
私たちは絶望の中にあるとき、周りの状況が見えなくなります。一切が暗闇であるかのように感じてしまいます。
ハガルはそういう状態でした。
神はそんなハガルに対して目を開かれます。目を開き、身近にある井戸を発見さすのです。
このようにしてハガルとイシュマエルの命は救われました。
母親の愛は偉大ですが、サラのイサクを愛する姿から限界をもったものであることが分かります。
エゴが内に含まれていることが分かります。またハガルのイシュマエルに対する献身的な愛も、限界をもったものであることが分かります。ハガルは愛するイシュマエルの命の危機に、ただ泣くしかありませんでした。
人間の愛のエゴと限界を突破していく御方が神であることを今日の箇所から学びたい。
時刻:
21:04
2013年05月05日「聖霊の時の始まり」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:使徒言行録1章3~9節
説教要旨:
クリスチャンの歴史認識は世俗の歴史認識とは異なる面があります。
それは終末信仰:キリストの再臨信仰に由来します。
今私たちが生きている時代は中間時といえるものであり、つまりそれはキリストの十字架と復活、そしてキリストの再臨との間にある時であるということです。そしてこの世界は闇から光の世界に移されているということです。どんなに闇が深く見えようが、光が消え去ることはないのが中間時であります。言い換えれば、キリストの光のもとにあるのが中間時であります。
しかしキリストは父なる神のもとへと昇天され、この世界はキリスト不在であるかのように思われますが、そうではなく、キリストは聖霊において臨在しているのです。
そのときがすでに始まっているのです。聖霊のときが中間時の特徴であります。
聖霊においてキリストはこの世界を神の御国の成就へと導いておられるのです。
神の御国はキリストの到来とともに始まっています。しかしその完成はキリストの再臨のときを待たねばならないのです。そのときを私たちは知ることはできません。
その時は分からないが、いつか必ず来る再臨のときまでの中間時が聖霊の時代、聖霊のときであります。
しかしイエスの弟子たちは、このことが理解できていませんでした。
キリストが復活されたからには、御国の完成はすぐにできるはずであると期待したのです。
そして御国はこの地上において完成されると誤解していたのです。
この地上で完成された暁には、自分たちはそれ相当の地位につけるはずであると思っていたのです。
しかし神の御国はこの世の国の基準でもって測れるものではありません。
あくまで霊的な国です。目には見えない霊的な国が神の国です。
キリストがローマ帝国を倒して、自ら王となり、自分たちを大臣にすることを期待していたのですが、キリストはこの世的な制度をもった国を説いたのではなかったのです。
聖霊が支配する国、聖霊の支配が行われる場が神の国です。
弟子たちに聖霊を注ぐことで、聖霊の支配が行われるときが開始されることをイエスは弟子たちに諭したのでした。私たちはこの聖霊の時を生きています。
ゆえにますます聖霊の注ぎを祈り求める者でありたい。私たちに聖霊が注がれれば注がれるほど、この世界に対する聖霊の支配は強まり、広がり、御国は前進するのです。
説教要旨:
クリスチャンの歴史認識は世俗の歴史認識とは異なる面があります。
それは終末信仰:キリストの再臨信仰に由来します。
今私たちが生きている時代は中間時といえるものであり、つまりそれはキリストの十字架と復活、そしてキリストの再臨との間にある時であるということです。そしてこの世界は闇から光の世界に移されているということです。どんなに闇が深く見えようが、光が消え去ることはないのが中間時であります。言い換えれば、キリストの光のもとにあるのが中間時であります。
しかしキリストは父なる神のもとへと昇天され、この世界はキリスト不在であるかのように思われますが、そうではなく、キリストは聖霊において臨在しているのです。
そのときがすでに始まっているのです。聖霊のときが中間時の特徴であります。
聖霊においてキリストはこの世界を神の御国の成就へと導いておられるのです。
神の御国はキリストの到来とともに始まっています。しかしその完成はキリストの再臨のときを待たねばならないのです。そのときを私たちは知ることはできません。
その時は分からないが、いつか必ず来る再臨のときまでの中間時が聖霊の時代、聖霊のときであります。
しかしイエスの弟子たちは、このことが理解できていませんでした。
キリストが復活されたからには、御国の完成はすぐにできるはずであると期待したのです。
そして御国はこの地上において完成されると誤解していたのです。
この地上で完成された暁には、自分たちはそれ相当の地位につけるはずであると思っていたのです。
しかし神の御国はこの世の国の基準でもって測れるものではありません。
あくまで霊的な国です。目には見えない霊的な国が神の国です。
キリストがローマ帝国を倒して、自ら王となり、自分たちを大臣にすることを期待していたのですが、キリストはこの世的な制度をもった国を説いたのではなかったのです。
聖霊が支配する国、聖霊の支配が行われる場が神の国です。
弟子たちに聖霊を注ぐことで、聖霊の支配が行われるときが開始されることをイエスは弟子たちに諭したのでした。私たちはこの聖霊の時を生きています。
ゆえにますます聖霊の注ぎを祈り求める者でありたい。私たちに聖霊が注がれれば注がれるほど、この世界に対する聖霊の支配は強まり、広がり、御国は前進するのです。
時刻:
10:45
2013年04月21日「ダビデのダンス」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:サムエル記下6章1~23節
説教要旨:
今日の聖書の箇所でダビデ王は喜び踊っています。ただその踊り方が王としてふさわしくないと妻のミカルはダビデを批判しています。
ダビデはその批判を受け入れつつも、自らの行為は主の御前にある行為であることを告げてます。また自分の行為は民とともにあることを告げます。王として威厳をもって高みから民と接する者ではないことを告げるのです。
ダビデにおいては、主の御前が問題です。周囲の人の目が問題ではありません。
世間がイメージしている王(気品があって威風堂々としているイメージ)とは違っても、そのイメージを壊すような踊りであっても、それが主の御前にあって出てきた行為であるなら、自分は気にしないというのがダビデの考えです。
妻ミカルは世間体を気にしました。ミカルはダビデが王としてふさわしいと世間が思うような行動を取ることを願いました。
そしてふさわしくない行動にダビデが出たとき、それも裸で踊ることをしたとき、ダビデを蔑むことをしたのです。
このミカルの行動に対して神は否を言われたのです。
ダビデは世間が自分をどう見るかということに左右されて行動しませんでした。
神の御前でどうであるかがダビデの関心でした。
その行為、踊りを神は受け入れました。神はミカルを裁かれましたが、ダビデの踊りに関しては裁いていません。神の目からすれば、ダビデの踊りは王にふさわしいものであったからです。
私たちはどうでしょうか。周囲の目によって行動が左右されてはいないでしょうか。
それとも神によって行動が左右されているのでしょうか。
説教要旨:
今日の聖書の箇所でダビデ王は喜び踊っています。ただその踊り方が王としてふさわしくないと妻のミカルはダビデを批判しています。
ダビデはその批判を受け入れつつも、自らの行為は主の御前にある行為であることを告げてます。また自分の行為は民とともにあることを告げます。王として威厳をもって高みから民と接する者ではないことを告げるのです。
ダビデにおいては、主の御前が問題です。周囲の人の目が問題ではありません。
世間がイメージしている王(気品があって威風堂々としているイメージ)とは違っても、そのイメージを壊すような踊りであっても、それが主の御前にあって出てきた行為であるなら、自分は気にしないというのがダビデの考えです。
妻ミカルは世間体を気にしました。ミカルはダビデが王としてふさわしいと世間が思うような行動を取ることを願いました。
そしてふさわしくない行動にダビデが出たとき、それも裸で踊ることをしたとき、ダビデを蔑むことをしたのです。
このミカルの行動に対して神は否を言われたのです。
ダビデは世間が自分をどう見るかということに左右されて行動しませんでした。
神の御前でどうであるかがダビデの関心でした。
その行為、踊りを神は受け入れました。神はミカルを裁かれましたが、ダビデの踊りに関しては裁いていません。神の目からすれば、ダビデの踊りは王にふさわしいものであったからです。
私たちはどうでしょうか。周囲の目によって行動が左右されてはいないでしょうか。
それとも神によって行動が左右されているのでしょうか。
時刻:
21:22
2013年04月14日「キリストに結ばれて」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:コリントの信徒への手紙二、5章16~21節
説教要旨:
17節「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とありますが、キリストと結ばれるとはどういうことでしょうか。また結ばれるとどうして新しく創造されるのでしょうか。
新しいものでありますから、古いものがあるはずです。古いものとは一体何を指しているのでしょうか。
それは古い人間です。古い型の人間です。神との和解がない人間です。神を敵としている人間です。
敵とまでしていなくても、不仲の関係にある人間です。
神が敵であれ、不仲の存在としてあれ、そのような存在に対して私たちは弱さを見せることをしません。
弱さを見せれば、攻撃を受けるのではないかとの恐れを抱きます。そこに平安はありません。
神が裁きの神だけであるなら、私たちはそのような心的現象をもつことでしょう。
しかし神は愛なる神であります。主イエスの十字架を通して、そのことを示されました。
私たちはこの十字架の主の前にあって、弱さを隠す必要はありません。私たちは主の御前では無防備になっていいのです。
むしろそのことを主は望まれます。自分の強さを見せようと覆っていた鎧などの武器を放棄していいのです。
虚構の強がりを捨て去り、ありのままの自分をさらけ出していくことが大事です。自らの罪ある姿をさらけ出すとき、主の十字架はそれを受け入れ、罪をゆるし、和解をしてくれます。神との和解で私たちはキリストに結ばれます。
そこから私たちの新しい創造が始まるのです。結ばれたキリストを通して聖霊が私たちに注がれます。
この聖霊によって私たちは日々新たに創造されていくのです。自らの力によって新しく創造するのではありません。
ですからキリストに結ばれることがないと私たちの新しい創造は起こらないのです。
説教要旨:
17節「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とありますが、キリストと結ばれるとはどういうことでしょうか。また結ばれるとどうして新しく創造されるのでしょうか。
新しいものでありますから、古いものがあるはずです。古いものとは一体何を指しているのでしょうか。
それは古い人間です。古い型の人間です。神との和解がない人間です。神を敵としている人間です。
敵とまでしていなくても、不仲の関係にある人間です。
神が敵であれ、不仲の存在としてあれ、そのような存在に対して私たちは弱さを見せることをしません。
弱さを見せれば、攻撃を受けるのではないかとの恐れを抱きます。そこに平安はありません。
神が裁きの神だけであるなら、私たちはそのような心的現象をもつことでしょう。
しかし神は愛なる神であります。主イエスの十字架を通して、そのことを示されました。
私たちはこの十字架の主の前にあって、弱さを隠す必要はありません。私たちは主の御前では無防備になっていいのです。
むしろそのことを主は望まれます。自分の強さを見せようと覆っていた鎧などの武器を放棄していいのです。
虚構の強がりを捨て去り、ありのままの自分をさらけ出していくことが大事です。自らの罪ある姿をさらけ出すとき、主の十字架はそれを受け入れ、罪をゆるし、和解をしてくれます。神との和解で私たちはキリストに結ばれます。
そこから私たちの新しい創造が始まるのです。結ばれたキリストを通して聖霊が私たちに注がれます。
この聖霊によって私たちは日々新たに創造されていくのです。自らの力によって新しく創造するのではありません。
ですからキリストに結ばれることがないと私たちの新しい創造は起こらないのです。
時刻:
20:31
2013年04月07日「空しさから充足へ」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1~14節
説教要旨:
復活のキリストと出合った弟子たちでありましたが、まだ十字架の方が復活よりも彼らの心を圧倒していました。「主は復活し、生きておられる」という実感がまだ確かなものではありませんでした。空しさが心をまだ支配していました。生の充実感はとてももてる状態ではありませんでした。
そんな中再び復活の主が弟子たちのところに現れます。そのとき弟子たちは夜通し魚を獲っていましたが、一匹も獲ることができませんでした。空しさは増すばかりです。精神的な空しさだけでなく、生きる糧を得ることができないという空しさです。弟子たちは、空腹という肉体的にも空っぽ状態にありました。そのときに主は言われました。「舟の右側に網を打ちなさい」と。その通りにすると魚が一杯獲れたのです。それまで声をかけた人が復活の主であることが分からずにいた弟子ですが、その人が復活の主イエスであることに気付くことになるのです。なぜ気付いたのでしょうか。それはかつて同じようなことがあったからです。
ルカ福音書5章にはその出来事が記されています。その出来事はペトロと他の弟子たちの召命の記事です。弟子としての召命を受ける前に、夜通し漁をしたのに、一匹も獲れなかったという出来事がありました。そのことを主イエスはご覧になり、「沖へ出てもう一度漁をしなさい」といわれたのです。その通りにすると、網が破れそうになるほど獲れたのです。そして「人間をとる漁師になるのだ」と弟子として召されたのでした。そういう忘れることのできない出来事ゆえに、同じことが起こるとすぐに思い出し、主であると分かったのです。さらに主は弟子たちと共に朝の食事をするのです。かつてしたのと同じように主は感謝して、パンと魚を弟子たちに分け与えられたのでした。もう誰もその人が主イエスであることを疑う者はありませんでした。主と共なる食事で肉体的に満たされただけでなく、精神的にも彼らには充足感がありました。主は生きておられるということを今確かに実感したのです。そのとき彼らの空しさは消え去り、内は主の愛で満たされることとなったのです。
説教要旨:
復活のキリストと出合った弟子たちでありましたが、まだ十字架の方が復活よりも彼らの心を圧倒していました。「主は復活し、生きておられる」という実感がまだ確かなものではありませんでした。空しさが心をまだ支配していました。生の充実感はとてももてる状態ではありませんでした。
そんな中再び復活の主が弟子たちのところに現れます。そのとき弟子たちは夜通し魚を獲っていましたが、一匹も獲ることができませんでした。空しさは増すばかりです。精神的な空しさだけでなく、生きる糧を得ることができないという空しさです。弟子たちは、空腹という肉体的にも空っぽ状態にありました。そのときに主は言われました。「舟の右側に網を打ちなさい」と。その通りにすると魚が一杯獲れたのです。それまで声をかけた人が復活の主であることが分からずにいた弟子ですが、その人が復活の主イエスであることに気付くことになるのです。なぜ気付いたのでしょうか。それはかつて同じようなことがあったからです。
ルカ福音書5章にはその出来事が記されています。その出来事はペトロと他の弟子たちの召命の記事です。弟子としての召命を受ける前に、夜通し漁をしたのに、一匹も獲れなかったという出来事がありました。そのことを主イエスはご覧になり、「沖へ出てもう一度漁をしなさい」といわれたのです。その通りにすると、網が破れそうになるほど獲れたのです。そして「人間をとる漁師になるのだ」と弟子として召されたのでした。そういう忘れることのできない出来事ゆえに、同じことが起こるとすぐに思い出し、主であると分かったのです。さらに主は弟子たちと共に朝の食事をするのです。かつてしたのと同じように主は感謝して、パンと魚を弟子たちに分け与えられたのでした。もう誰もその人が主イエスであることを疑う者はありませんでした。主と共なる食事で肉体的に満たされただけでなく、精神的にも彼らには充足感がありました。主は生きておられるということを今確かに実感したのです。そのとき彼らの空しさは消え去り、内は主の愛で満たされることとなったのです。
時刻:
20:01
2013年03月31日「キリストの墓はどこに」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ルカによる福音書24章1~12節
説教要旨:
キリストの遺体が納められた墓の中は空っぽでした。
婦人たちは、天使からキリストは復活したことを告げられます。
彼女らはそのことを弟子たちに報告したのですが、弟子たちは信じることが出来なかったのです。
私たちも復活ということがなかなか信じられない者です。
しかしこのふつうには信じられない復活を世々の教会は信仰の核として大切にしてきました。核でありますからそれを失うと信仰は空洞化してしまいます。その外側にいかにいろいろなものを塗りたくっても、その塗りたくったものでもって、これが信仰ですと主張してみても空しいのです。中身が空洞であるからです。
キリストの遺体がない空っぽの墓ということだけで復活が信じられないならやはりその信仰は中身のないものといえます。墓が空っぽであるのは、誰かが遺体を盗んだからだというようにキリストの復活を否定してみてもそれで信仰が完成されるものではありません。私たちは天使たちの言葉をまた聖書の復活証言を信じることです。復活を信じるのに空っぽの墓で十分ではないですか。
キリストの墓の場所は今日誰もどこにあったと確定できない事柄となっています。
世々の教会はそのことにあまり関心がなかったといえます。
キリストが復活したからこそ、今も生きて働いておられるからこそ墓など関心事ではなかったのではないのでしょうか。もし墓が空っぽでなかったなら、キリストの遺体が依然として納められたままであるなら、今日のようにキリスト教会は存在していなかったことでしょう。
墓が空っぽであったがゆえに弟子たちの心の空洞が、また私たちの心の空洞がよみがえられたキリストによって満たされることになったのではないのでしょうか。
説教要旨:
キリストの遺体が納められた墓の中は空っぽでした。
婦人たちは、天使からキリストは復活したことを告げられます。
彼女らはそのことを弟子たちに報告したのですが、弟子たちは信じることが出来なかったのです。
私たちも復活ということがなかなか信じられない者です。
しかしこのふつうには信じられない復活を世々の教会は信仰の核として大切にしてきました。核でありますからそれを失うと信仰は空洞化してしまいます。その外側にいかにいろいろなものを塗りたくっても、その塗りたくったものでもって、これが信仰ですと主張してみても空しいのです。中身が空洞であるからです。
キリストの遺体がない空っぽの墓ということだけで復活が信じられないならやはりその信仰は中身のないものといえます。墓が空っぽであるのは、誰かが遺体を盗んだからだというようにキリストの復活を否定してみてもそれで信仰が完成されるものではありません。私たちは天使たちの言葉をまた聖書の復活証言を信じることです。復活を信じるのに空っぽの墓で十分ではないですか。
キリストの墓の場所は今日誰もどこにあったと確定できない事柄となっています。
世々の教会はそのことにあまり関心がなかったといえます。
キリストが復活したからこそ、今も生きて働いておられるからこそ墓など関心事ではなかったのではないのでしょうか。もし墓が空っぽでなかったなら、キリストの遺体が依然として納められたままであるなら、今日のようにキリスト教会は存在していなかったことでしょう。
墓が空っぽであったがゆえに弟子たちの心の空洞が、また私たちの心の空洞がよみがえられたキリストによって満たされることになったのではないのでしょうか。
時刻:
21:11
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