2009年2月22日「メッセージ」市岡裕子姉

聖書箇所:マタイによる福音書6章34節
34、だから、明日のことまで思い悩むな。明日は明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

市岡裕子姉の個人史において、特に父、故・岡八朗氏に関係した様々な苦難や試練があったけれども、

そのつど神さまが道を備え、恵みのうちに 導いてくださったことにより、現在の自分があることを証しされました。

曲名

  • Amazing Grace

  • 感謝します

  • I know who holds tomorrow

  • My life is in Your hand

  • たいせつな人

  • 君は愛される為生まれた

2009年2月15日「御国への方向転換」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書21章28~32節
29、兄は「いやです」と答えたが、あとで考えなおして出かけた。
30、弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。
31、この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄のほうです」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦た ちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
32、なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれをみても、後で考えなおし て彼を信じようとしなかった。

説教要旨

今日の箇所はふたりの息子のたとえ話です。父の招きに対して異なる反応をみせたふたりの兄弟です。兄は最初はぶどう園(神の国)に行くことを拒んだのです が、あとで考え直し出かけたのです。一方の弟は最初は行きますと答えたのですが、実際には出かけなかったのです。

この弟は祭司長や民の長老たちであります。世間からは立派な人と見られているのですがバプテスマのヨハネが悔い改めを宣べ伝えても信ぜず、ましてや 主イエスを受け入れることはなかったのです。
徴税人や娼婦たちと一緒に神の国に入ることを拒んだのです。彼らは「どうしてあのような罪深い者と同じでありえよう」と思ってしまったのです。

一方の兄は徴税人や娼婦たちを表しています。彼らは最初は拒否しますが、ヨハネの悔い改めを信じ神の国(ぶどう園)へ行くことに決めるのです。
そして主イエスは、世間からは罪深い者とみられている彼らの方が先に神の国に入ると言われるのです。

しかし私たちは祭司長や民の長老たちが神の国に入ることはできないと結論づけないように気をつけたい。
主イエスは神の国に徴税人や娼婦たちが先に入ると言われているのであって、祭司長や民の長老たちがさらに後で悔い改め(方向転換)してぶどう園(神の国) に向かうなら、神の国の門は彼らに閉じられることはないのです。神の御心はすべての人が救われることです。一人でも滅ぶことは御旨ではありません。

ゆえに神は大いなる忍耐をもって、今は神に背いている人々が悔い改め、神に従うことを願っているのです。
どの人も神の救いの招きからはずれることはないのです。御国の招きから排除されることはないのです。

2009年2月8日「主が共にいませば」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書14章22~33節
25、夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれた。
26、弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
27、イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
33、舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

説教要旨
今日の箇所で主イエスから弟子たちは遠く離れています。主イエスが目には見えない状態の中で弟子たちだけで舟に乗り込み沖へと出ていきます。そこに逆風が 吹き、弟子たちは悩まされていました。
そんな窮状を主は知り、弟子たちのところへと湖の上を歩いて近づいていきます。弟子たちは主イエスを幽霊だと思い、恐怖に陥ります。主イエスを主として認 識できないのです。ここに危機はより深まります。

救い主イエスが窮地を救うために来ているのに見えないとは教会の危機であり、信仰の危機であります。そこで主は言われます「安心しなさい。わたし だ。恐れることはない。 この声でやっと主であることを知ります。
ペトロは主であると分かると「水の上を歩いてそちらに行かせてください」と申し出ます。主イエスから「来 なさい」と言われ、ペトロは舟から出て水の上を歩いていきます。

しかし強い風に気をとられ、怖くなり沈みかけます。ここでも主が見えなくなっているのです。今度は沈みかけるという、より大きな危機がペトロを襲っ ています。
強い風の方が実在する主イエスよりもペトロの心を支配しているのです。滅びへとペトロは向っています。そんな絶対絶命のペトロは「主よ、助けてください」 と叫びます。すると主は手を伸ばし、ペトロを引き上げるのです。そして舟に二人が乗り込むと風が静まったのです。

まず弟子たちは山で遠く離れて祈っている主イエスの臨在を感じることができませんでした。そして彼らの窮地を救うために近づいて来られる主イエスを 認識することができませんでした。
さらにペトロは主イエスを認識しても、強い風に心を奪われ、主イエスが見えなくなりました。しかしそんな信仰薄 いペトロを見捨てず、救おうとされた主の愛に応えて、私たちはたえず弟子たちと共に「本当に、あなたは神の子です」と告白し続けたい。主イエスは、私たち が主がいるのに主が見えない信仰の薄さにもかかわらず、私たちを救わんとされます。このことは大きな恵みであり、慰めではないでしょうか。

2009年2月1日「思いがけない呼びかけ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書19章1~10節
5、イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
6、ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7、これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
8、しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたなら、それ を四倍にして返します。」

説教要旨
徴税人の頭ザアカイがイエス・キリストと出会う物語です。
当時徴税人はユダヤ人同胞から非常に嫌われていました。単に嫌われていただけでなく罪人 みなされていました。なぜか。それはローマ帝国の支配の下、税金を収奪し、不正な取り立てをしていたからです。
そんな社会から疎外されたザアカイ はイエスを一目見ようとしますが、背が低いため群衆に遮られて見ることができません。そこでイチジク桑の木に登りイエスを見ようとするのです。

見るだけで十分であったのですが、主イエスの方から思いがけなく呼びかけがなされたのです。それもザアカイという名前をもって呼びかけられたので す。ここに神は群衆という塊で私たちを見ているのではなく、ひとりびとりを区別して見ているということが分かります。またその区別が番号でもってなされる のではなく、固有の名前をもってなされているということは、神は私たちひとりびとりをかけがえのない者としてご覧になっておられるということです。

さらに主イエスは「ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)と言われます。世間からのけ者にされていたザアカイにとって、これは青天の霹靂であったこ とでしょう。この主イエスの御声でザアカイの回復が図られていきます。社会から失われ1いたザアカイは今主の御声によって社会へと連れ戻されるのです。
ザアカイはその突然訪れた神の大いなる恵みに応答し、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それ を4倍にして返します」(8節)とまで申し出るのです。収奪する者から施す者へとザアカイは転換したのです。

イエスとの出会いはこのような大きな転換を引き起こしていきます。ここで注目することは、ザアカイの申し出があったから、主イエスはザアカイの家に 泊まるということをされたのではないということです。
まず神の大きな恵みがあり、それを受けてザアカイの申し出があったということです。圧倒せる 恵みにザアカイは人生の大転換をしたのです。この大転換(収奪する者から施す者へ)は、神が求める人間の本来的な生き方(愛し合い、助け合う生き方)への 立ち返りであります。このようにして失われた者が回復されるのです。

2009年1月25日「神の国と神の義」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書6章25節~34節
25、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思いなやむな。命は食べものより大切で あり、体は衣服よりも大切ではないか。
32、それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがもなあなたがたに必要なことをご存じである。
33、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
34、だから、明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思う悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

説教要旨
イエスさまは「明日のことまで思い悩むな」と言われます。そのようにしたいと私たちは思いますが、現実には思い悩んでしまうのです。
イエスさまは思い悩むがことが悪いと言われているのではなく、思い悩むことを将来へとゆだねることができない私たちに神の恵みを与えるために「明日のこと まで思い悩むな」と言われているのです。

「明日のことまで」であり、今日を思い悩むことはある意味で大切なことであります。人間は将来に向けて計画を立てることができます。そのような賜物 を神は他の動物と違って私たち人間に与えてくださいました。その賜物を私たちは行使すべきであります。

将来に向けての計画で私たちは思い悩 みます。計画が御心に沿ったものであるかどうかの吟味がそこでは必要です。
余りに自我の追求のための計画であるなら、神は嘆き悲しむことでしょ う。

イエスさまは「まず神の国と神の義を求めよ」と言われています。神の国も神の義もともに他者と関わりをもつ言葉です。絶対他者なる神と、また隣人と ともに生きることで、神と隣人との正しい関係を持つことで神の国が神の義が現れてきます。そこでは自我の飽くなき追求は断念されぜるをえません。自己中心 的生き方は断念せざるをえません。

何を食べようか、何を着ようかと私たちの自我は際限なく思い悩みます。しかし神の国と神の義を求めるとき、将来に向けて他者とともに生きる計画をせ ざるをえません。自我の欲望を抑制せざるをえないのです。そのことで世界中で明日の命さえ脅かされている人々が、飢餓の中にいる人々が、生活が劣悪にある 人々が救われることが起こってくるのです。
しかし計画が将来実現するかどうかで私たちは思い悩まないでいいとイエスさまは言われているのです。

「明日のことは明日自らが思い悩む」とは、神ご自身が、私たちに代って明日のことを思い悩むということです。明日という日は神の御手の中にあり、私 たちが思い悩むものではなく、神にゆだねよということです。その日に労苦した思い悩み(将来に対しての計画)はその日だけで十分であるとの御声をしっかり と聴きたい。

2009年1月18日「見えるという罪」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書9章13~41節
24、さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度む呼び出して言った。 「神の前で正直に答えなさい、わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」
25、彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、 目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
33、あの方が神のもとから来られたのでなければ、なにもおできにならなかったはずです。

説教要旨
ヨハネによる福音書9章1節以下の箇所で、生まれつきの目の見えない人がイエスによって癒されるという 出来事が起こりました。しかしながらこの人はまだイエスを主(メシア)として見ていません。
預言者の一人として見ています(17節)。この人は肉体的には目は開かれたのですが、 まだ心の目は開かれていないのです。イエスを主として受け入れていないのです。

私たちが本当に目を開かれるのは、イエスを救い主として受け入れ信じることで始まるのです。
しかしファリサイ派の人たちは、「自分たちはすでに目が開かれている、だからすべて見えるのだ」と 自負していたのです。そんな彼らを主イエスは、実は見えていないと批判されます。

私たちもともすればファリサイ派の人たちと同じような過ちを犯します。 主イエスによって目が開かれているから、もう道案内人なしに自分で間違いなく歩いていけると自惚れ、 高慢になるときがあります。
私たちは主イエスによって救われてもなお目が見えていないのだということに気づく必要があります。
目が見えていないから、ただ主イエスによりすがり、行くべき道を導いてもらわなければならないのです。 主イエスが私たちの目となっていただかなくてはならないのです。主イエスによって目が開かれるとは、 主イエスの目によってすべて導かれることと言い換えることができるのです。

2009年1月11日「荒野のからの声」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:申命記3章23節~4章9節

説教要旨
今日の箇所はモーセが乳と蜜の流れる約束の地カナンを目の前にして、
いよいよ約束の地へと入るイスラエルの民に、これからどのように生きていったらいいのかを 語り聞かせる箇所です。
モーセも民と一緒に約束の地に入ることを願っていたのですが、主の御心はそうではなく、 モーセは入ることなく死を迎えねばなりませんでした。

そういう意味でいわゆる遺言的な意味をもっています。
もし神から授かった戒めを忠実に守っていくなら、神の民として祝福を受けるが、 そうでないと滅びが待っているとモーセは民に告げるのです。

民はたえずこの荒野からのモーセを通しての神の声を聞く必要がありました。 しかし民はそれができず滅びへと向かうことになります。
民は約束の地に入り、さらに王国を作りあげ、ソロモン王の時代に物資的な繁栄の頂点を迎えます。 しかしその頂点においてすでにモーセの10戒に違反する罪を犯していたのです。 以後の王国時代の大半は神の御心から離れての歩みとなりました。そこでかずかずの預言者たちが起こされ、たえず神に立ち帰ることが告げられましたが、それ もできず最終的に国は滅びました。モーセの無念さは幾ばかりであったことでしょう。 私たちもともすれば物質的な繁栄の中にあって荒野からの声を忘れ、神の御心から離れることがあります。 荒野の厳しい声よりも豊穣を説く声に誘われがちになります。 しかし荒野からの声こそが繁栄の中にあるときこそ聴くべき声であるのです。