2009年5月24日「キリストの昇天と御国の到来」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録1章3~11節
7、イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
8、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わ たしの証人となる」
9、こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
10、イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って
11、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たの と同じ有様で、またおいでになる。」

説教要旨
私たちは自分にとって大切な人が亡くなったとき、前向きに生きることができなくなります。途方にくれることさえあります。大切さの度合いによって人それぞ れでしょう。
イエスの弟子たちにとって、主イエスは大切な人でありました。自分の人生の一切を賭けて付き従ってきた人です。それゆえに嘆きと悲し みは激しいものがあります。復活した喜びが大きかっただけに、今昇天して、共に生活できなくなることはとても耐えられないような痛みを伴います。

そんな弟子たちに天使たちは「なぜ天を見上げて立っているのか。天に上げられたイエスはまたおいでになる」と言われます。
この言葉には弟子たちのこれからの生き方について示唆するものがあります。天を見上げているままでは前に進まないではないか。またお会いするときが必ず来 るのだから、目を地上に向け生活しなさいとの示しがあります。

もっと言えば、確かに目に見える形で主イエスはいなくなるけれども、聖霊において主イエスは共にいることがペンテコステ(聖霊降臨)において示され るゆえに、希望をもって生きなさいとの励ましがあります。
私たちは今中間時を生きています。キリストの十字架と復活の時とやがて来るキリストの再臨の時(=神の御国の成就の時)の間の時を生きているのです。この 中間時においてイエス・キリストは目に見える形ではおられないけれども、聖霊においておられることを私たちは覚えたい。聖霊において共にいて慰めと励まし を与えてくださっておられます。

またこの中間時において私たちは福音宣教に励まなければならないことも覚えたい。福音宣教は私たちだけでするのではないのです。聖霊において主イエ スは私たちに福音宣教の力と知恵を与え、共に御国の成就に向けて生きてくださっておられるのです。

2009年5月17日「神の言葉と祈りによって」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:テモテへの手紙一、4章1~5節
1、しかし、"霊"は次のように明確に告げておられます。終わりのときには、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。
2、このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるからです。彼らは自分の良心に焼印を押されており、
3、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお 造りになったものです。
4、というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。。
5、神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。

説教要旨

4節「神がおつくりになったものはすべて良い」といわれています。私たちはそのような神の良き創造物の中で生活している一方、人間が作り出した悪いものの 中でも生活しています。
人間が作り出すものすべてが良いものではありません。ときとしてその悪いものに支配されて生活するようなときもあります。

世間が定めた価値基準に基づいて生活することが多々あります。確かにそれは悪いものばかりではありません。良きものもあります。問題は良きものであ るかのように見せかけて私たちを誘うもの、内実は悪いものの場合です。悪魔(悪霊)はあたかも良きものであるかのように私たちを誘惑します。
私たちはその誘惑に負けるとき、神の道から離れた生活へと向かうことになります。私たちはそれに打ち勝たねばなりません。ではどのようにして打ち勝つの か。

自力では難しいことです。5節にあるように「神の言葉と祈り」によるのです。それは主イエスが神の言葉によって悪魔の荒野での誘惑に打ち勝たれたよ うにです(マタイ福音書4章1節以下参照)。
さらに私たちには祈りが必要です。その祈りとは端的に主の祈りの中にある「悪より救い出したまえ」という祈りにあります。日々神の言葉と祈りによって私た ちは悪魔の誘惑から解き放たれ、神の道を歩むことが可能になるのです。

2009年5月3日「幼子のように」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書18章1~5節
1、そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
2、そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
3、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
4、自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
5、わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。

説教要旨
イエスさまは「心を入れ替えて子供のようにならなければ天の国に入ることはできない」と言われます。私たちはなぜ子供のようにならないと天の国に入ること ができないのか分からないところがあります。
まずこのように言われて私たちが考えることは、純真な心にならなければいけないのかということです。主イエスは決してここで純真な心をもたなければならな いという意味で言われていません。「自分を低くして」ということが付加されています。子供は文字通り低いです。高くはありません。

私たちは高いところに到達するということを目標にして生きている面があります。はなはだしい場合は、神のごとくなろうとすることもあります。神のい るような高いところに自らを祭り上げることさえ私たちはしようとします。
そのような人に天の国はないということを主イエスは言われているのです。たえず神の御前にあって自らを低くしていく人が天の国に入ることができるのです。 神の御前にあって 自らを高くしていこうとする人には天の国は遠いのです。

またこどもは他者に対する依存が大きいです。年が幼くなればなるほど、他者依存は増していきます。
そのように私たちも神に依存する存在であることを認め、神により頼んで生きていく人に天の国は近いのです。私たちはこの主イエスの御言葉によって、この世 が評価する高きに上るということから解放されます。
解放されて、ただ神により頼んで生きることの幸いへと導かれるのです。

2009年4月26日「すべての民を弟子とせよ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書28章16~20節
18、イエスは、近寄ってきて言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19、だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け
20、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

説教要旨

今日の箇所はいわゆる主イエスの大宣教命令といわれているもので、多くのキリスト者たちを伝道へと突き動かしてきた御言葉であります。「すべての民をわた しの弟子にしなさい」(19節)といわれていますが、主の弟子になるとはどういうことを意味しているのでしょうか。
それは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)との御言葉と関係しています。それは主イエスの主権のもとに入るということを意味していま す。主イエスに一切を献げ、支配をゆだね、従うということであります。いかなるこの世的権能にもひれ伏さないということです。また主の権能を超えて権能を 振るおうとするこの世的権能は拒否するということでもあります。これが真の主の弟子性であります。

しかしこの弟子性を貫徹することは容易なことではありません。事実多くのキリスト者はこの世の権能に妥協し、またおもねり、ひれ伏すことさえしてき たのであります。この世の権能が悪魔的なものであっても、そうしてきたこともあります。
そんな弱い私たちでありますが、主はいつも私たちと共にいてくださると約束されておられます。共にいて私たちに力を与えてくださっておられます。
宣教師たちは激しい迫害の中にあっても、この主の約束を堅く信じ、福音宣教に邁進していったのであります。伝道困難な日本でありますが、私たちも主の約束 を堅く信じ、福音宣教に励んでいきたい。

2009年4月19日「空しさの中で」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1~14節
4、既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
5、イエスが、「子たちよ、なにか食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
6、イエスは言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げること ができなかった。
7、イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

説教要旨

イエスの弟子たちは、復活の主イエスにすでに2度会っているのですが、まだ主は復活されたということに対して半信半疑であります。確信がもてないでいま す。
確信がもてないとき、復活のことに限らずいろいろなことにおいて何か虚ろなものを私たちは感じます。

特にこれからの人生、どのようにして生きていったらいいのかという問いに対して、はっきりとしたこれといった確信がもてないとき、心は虚ろでありま す。人生のすべてを賭けてきたものが失われたときは特にそうであります。
弟子たちは主イエスにすべてを賭けて生きてきたのです。それが十字架で死んでしまい、賭けてきたものが失われました。

しかしそのあと復活の主イエスが彼らのところに現われても、彼らは簡単には信じることができませんでした。復活の確信がもてないでいたのです。彼ら の心は、主イエスなきままで、これからどう生きていったらいいのかわからない空しさに支配されていました。
そんな中復活の主イエスはまた彼らのところに現われ、復活の確信へと導くのです。まさに3度目の正直という感じです。

弟子たちを復活の確信へと導いたものは、網が破れそうになるほどの大量の魚の捕獲でありました。神の圧倒せる恵みでありました。
ルカ福音書5章にもこれと似た話が記されています。おそらく弟子たちはかつてあった同じようなことがまた起こったことで、「あああのときと同じだ」と悟 り、主イエスは確かに復活したのだと確信したのでしょう。

私たちが復活の主を見失っているとき、弟子たちと同じように私たちの心は空しさに支配されます。しかし復活の主イエスを見出すとき、空しさは終わり を告げ、主は生きて今も私たちと共におられるとの確信をもてるようになり、生きる喜びと希望をもって主と共に前進することができるのです。

2009年4月12日「信じる者になりなさい」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章24節~31節
24、12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25、そこで、ほかの弟子たちが、「私は主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手 をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
26、さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和 があるように」と言われた。

説教要旨

イエスさまは29節で弟子のトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。
よく考えてみれば、トマスは復活の主を見ただけでは信じられない、触らないと信じられないと言っています。ですから主イエスの言葉は何かトマスには不適切 なように思われます。言うなら「わたしに触れたから、あなたは信じたのか」となるはずであります。

そのようには言われなかったということは、実はトマスは復活の主に触ることをしなかったのではないでしょうか。主イエスは信じられないトマスに「あ なたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と 言われたのです。
しかしトマスはその主イエスの言葉で十分でありました。あえて触れることまでしなくても、その言葉でトマスは主イエスであることを悟ったのです。

そして告白します。「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と。
復活信仰の真髄は、見たから信じる、触れたから信じるというところにはなく、主イエスの言葉に触れ、神の御子イエス・キリストを信じるところにあるので す。 トマスは実は主イエスが言われる「見ないのに信じる人は、幸いである」との祝福の言葉を受ける側の人間に立っているのです。私たちは主イエスを目で見るこ とはできません。またそのからだに触れることもできません。しかし御言葉に触れ、御言葉に生かされることはできます。
そのとき確かに主イエスは復活し、今も生きて私たちに働いておれることを実感できるのです。

2009年4月5日「イエスさまは私たちの御者」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書11章1~11節
1、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2、言われた。「向こうの村に行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさ い。
3、もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐにお返しになります』と言いなさい。
7、二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

説教要旨

今日は棕櫚の日です。主イエスがエルサレムに入城された日です。入城されるに際して主イエスは子ろばに乗られたのです。これには意味があります。
まずゼカリヤ書9章9節10節と関係しています。
メシアはろばに乗ってこられるとの預言の成就としての意味があります。メシアは決して勇ましい馬に乗ってくるのではなく、戦争とは無縁のろばに乗ってくる のだということです。つまり平和の主として来られるということです。

平和の主としての主イエスに私たちは歓呼の叫び声を挙げたい。
しかし今日の箇所の群衆はそんなメシアをイエスに期待していたのではなかったのです。あくまでローマ帝国を打ち負かすような勇ましいメシアを主イエスに期 待していたのです。ですから抵抗することもなく十字架につけられるようなひ弱な主イエスに失望し、主イエスを嘲笑するような態度へと変わっていくのです。

しかし十字架の主イエスこそが、メシアであることを聖書は告げています。 群衆と同じような見方や態度をとることしかできない私たちの罪を主は十字架で贖なわれました。私たちの罪はすでに十字架の主によって担われ、贖われていま す。
その恵みに私たちはどのように応えていったらいいのでしょうか。それは罪の重荷をすでに解かれた私たちでありますから、今度は主イエスを担うということで 十字架の恵みに応えるのです。

すなわち子ろばとしての私たちの使命があります。主イエスによって子ろばのようにご用に用いられることです。
主が導くままに従っていく、そのような子ろばの御者として主イエスを担うのです。一人で担うのではなく、皆で共に担うのです。そこにキリストのからだとし ての教会があります。教会は御者であり平和の主であるイエス・キリストに従順に従うことで キリストのからだとしての教会の使命を果たしていくのです。