聖書箇所:使徒言行録5章12~32節
説教要旨:
今日の箇所で使徒たちによるしるしと不思議な業が行われたことが記されています。
そしてここでも「心をひとつにして」いたのです。心がバラバラではしるしと不思議な業は行われません。
また多くの人々がキリストを信じることとなりました。
そのことで大祭司やサドカイ派の人々はねたみを使徒たちに覚えたのです。
前回の逮捕のときは、使徒たちの復活信仰が問題となりましたが、今回は教義上の問題ではなく、単なるねたみという感情レベルのことで逮捕されるに至ったのです。
まったく権力の乱用であります。権力者はどんな理不尽な理由であれ、自分たちにとって不都合な者を閉じ込めようとします。自由を奪おうとします。
しかし神はそれを許さず、使徒たちを天使を通して、牢から解放するのです。
キリストの福音を、また伝道者をいかなる権力者も閉じ込めることはできません。
使徒たちを通して、福音は宣教されねばならないのです。
使徒たちは福音を神殿の境内で語り告げます。そのことに権力者は戸惑い、恐れ、再び使徒たちを逮捕し、最高法院で彼らを尋問し始まるのです。「キリストの福音を語ってはならない」と最初の逮捕で、自分たちが釈放されるときに、大祭司たちから言い渡されたにもかかわらず、
使徒たちは神殿で福音を大胆に語ったのです。
それは人に従うよりも神に従うことを優先させた結果であります。
このようにして福音は伝達されていきます。人に従うことで福音は伝達されません。
神に従うことで福音は伝達され、福音を信じる者が起こされていくのです。
2011年07月17日「前へ向かわしめるもの」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:詩編143編
説教要旨:
143編で、詩人は命の危機に陥っています。危機の中にあって深い淵から救いを求めています。彼は敵から攻撃を受け、裁判に引き出され、死刑の判決を受ける可能性があります。彼は決して自分には罪はないとは思っていません。犯した罪の自覚があります。
その犯した罪が過去において与えられた神の恵みを台無しにするほどのものとして今臨んでいます。
そのような状況下で、詩人は過去の神の恵みに思いをめぐらします。そのことで自らを慰めようとしています。
と同時に彼は今一度神が大いなる恵みを賜り、自分を救ってくれるようにと祈っています。危機の中にあってなお神へと向かっています。
命の危機の中で、意気消沈し、起き上がれないほどでありますが、そこにあってもなお神への信仰を捨てては、いないのです。前向きに神へと祈るのです。
犯した過去の罪が私たちを前へと向かわしめないで足を引っ張ることがあります。前に進もうにも、過去が足にからみつき、前へと足を進めることをできなくさせていることが多々あるのです。
そのような過去から私たちを解き放つものは一体何なのでしょうか。
私たちはそのような場合、どこに逃れていったらいいのでしょうか。
それはイエス・キリストの十字架です。過去の罪の重荷を十字架で降ろすのです。
詩人は危機からの脱出を敵がすべて絶やされることで果たそうと神に祈っています(12節)。
確かに敵が絶やされるなら、詩人は命の危機から救われるでしょう。でも過去の犯した罪はそのまま残ります。
罪の贖いとゆるしが彼にはなお必要なのです。そのことが主イエス・キリストの十字架において起こるのです。
十字架のもと荷を降ろし、身軽くなって、前へと向かうのです。
説教要旨:
143編で、詩人は命の危機に陥っています。危機の中にあって深い淵から救いを求めています。彼は敵から攻撃を受け、裁判に引き出され、死刑の判決を受ける可能性があります。彼は決して自分には罪はないとは思っていません。犯した罪の自覚があります。
その犯した罪が過去において与えられた神の恵みを台無しにするほどのものとして今臨んでいます。
そのような状況下で、詩人は過去の神の恵みに思いをめぐらします。そのことで自らを慰めようとしています。
と同時に彼は今一度神が大いなる恵みを賜り、自分を救ってくれるようにと祈っています。危機の中にあってなお神へと向かっています。
命の危機の中で、意気消沈し、起き上がれないほどでありますが、そこにあってもなお神への信仰を捨てては、いないのです。前向きに神へと祈るのです。
犯した過去の罪が私たちを前へと向かわしめないで足を引っ張ることがあります。前に進もうにも、過去が足にからみつき、前へと足を進めることをできなくさせていることが多々あるのです。
そのような過去から私たちを解き放つものは一体何なのでしょうか。
私たちはそのような場合、どこに逃れていったらいいのでしょうか。
それはイエス・キリストの十字架です。過去の罪の重荷を十字架で降ろすのです。
詩人は危機からの脱出を敵がすべて絶やされることで果たそうと神に祈っています(12節)。
確かに敵が絶やされるなら、詩人は命の危機から救われるでしょう。でも過去の犯した罪はそのまま残ります。
罪の贖いとゆるしが彼にはなお必要なのです。そのことが主イエス・キリストの十字架において起こるのです。
十字架のもと荷を降ろし、身軽くなって、前へと向かうのです。
時刻:
23:14

2011年07月10日「皆一つになって」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:使徒言行録2章42節~47節
説教要旨:
今日の箇所は初代教会が大切にしていた事柄が記されています。
使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることです。
それらの事柄を守るいっぽう、不思議な業としるしが伴っていました。
不思議な業としるし、これは奇跡と言い換えてもいいでしょう。イエスが行った奇跡が弟子たちにおいても行われたのです。
そしてその奇跡の中に、44節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」ことも含めていいのではないかと思います。
今日の世界においてこのようなことはありません。共産圏の国でもありません。
まさに奇跡的な出来事であります。
でもこの出来事は長く続くことはありませんでした。
長く続くことがなかった理由として終末の遅延があります。
キリストの再臨が明日にでもあるとなると、私たちは物欲から解き放たれます。
物を所有することから自由になれます。
でも終末、キリストの再臨がなかなかやってこないとなると、だんだん明日の生活のことを思い煩うようになります。明日の生活のことを考える、物の所有というエゴが芽生えてきます。そこには人間の深い罪があります。
今日を生きる私たちには終末の切迫感はありません。ですから明日のことを思い煩ってしまうのです。とてもすべての物を共有することなどできません。
ですから初代キリスト教会の姿とは違っています。罪ある人間において、すべての物を共有することは至難の業であります。至難の業でありますが、できるだけ相互扶助の信仰を強められたいと思います。互いに愛し合うということの中に、それは含まれています。
けれども私たちは、物の共有というしるしに無理やり、いやいや集中するよりも、他にしるしを見るべきではないのでしょうか。
46節のことです。皆心を一つにして礼拝を献げ、神を賛美すること、ここに大きな不思議な業としるしを見ることができるのではないでしょうか。
私たちの群れには、年齢も違い、性差もあり、職業の違い、生まれ育った背景の違い、人種や民族の違い、階層の違い、趣味嗜好の違い、など様々な相違があります。
多様な人々が集うています。この世的には到底一つになることができないような集団です。
そのような群れが今朝一つとなって、心を一つにして神に礼拝を献げていることこそが、大きな業としるしとして私たちは見ることができるのではないのでしょうか。
説教要旨:
今日の箇所は初代教会が大切にしていた事柄が記されています。
使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることです。
それらの事柄を守るいっぽう、不思議な業としるしが伴っていました。
不思議な業としるし、これは奇跡と言い換えてもいいでしょう。イエスが行った奇跡が弟子たちにおいても行われたのです。
そしてその奇跡の中に、44節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」ことも含めていいのではないかと思います。
今日の世界においてこのようなことはありません。共産圏の国でもありません。
まさに奇跡的な出来事であります。
でもこの出来事は長く続くことはありませんでした。
長く続くことがなかった理由として終末の遅延があります。
キリストの再臨が明日にでもあるとなると、私たちは物欲から解き放たれます。
物を所有することから自由になれます。
でも終末、キリストの再臨がなかなかやってこないとなると、だんだん明日の生活のことを思い煩うようになります。明日の生活のことを考える、物の所有というエゴが芽生えてきます。そこには人間の深い罪があります。
今日を生きる私たちには終末の切迫感はありません。ですから明日のことを思い煩ってしまうのです。とてもすべての物を共有することなどできません。
ですから初代キリスト教会の姿とは違っています。罪ある人間において、すべての物を共有することは至難の業であります。至難の業でありますが、できるだけ相互扶助の信仰を強められたいと思います。互いに愛し合うということの中に、それは含まれています。
けれども私たちは、物の共有というしるしに無理やり、いやいや集中するよりも、他にしるしを見るべきではないのでしょうか。
46節のことです。皆心を一つにして礼拝を献げ、神を賛美すること、ここに大きな不思議な業としるしを見ることができるのではないでしょうか。
私たちの群れには、年齢も違い、性差もあり、職業の違い、生まれ育った背景の違い、人種や民族の違い、階層の違い、趣味嗜好の違い、など様々な相違があります。
多様な人々が集うています。この世的には到底一つになることができないような集団です。
そのような群れが今朝一つとなって、心を一つにして神に礼拝を献げていることこそが、大きな業としるしとして私たちは見ることができるのではないのでしょうか。
時刻:
20:46

2011年07月03日「キリストを模範に」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ペトロの手紙一、2章18~25節
説教要旨:
18節で、無慈悲な主人にも心からおそれ敬って従いなさい、と勧められています。
さらに「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」とも言われいます。
なかなか素直に聞き入れることのできない言葉です。
どうしてこのような言葉が発せられるのでしょうか。一つには終末、キリストの再臨の切迫があります。無慈悲な主人から受けた不当な苦しみに抗議するよりも、迫り来るキリストの再臨に備えるがことが何よりも大切であることが背景にあります。しかしそれだけではありません。キリストの足跡に続くことがキリスト者にとって重要であるとの理由です。キリストも不当な苦しみを十字架で受けました。
また私たちも不当な苦しみを無慈悲な主人から受けることがあります。
でも十字架で不当な苦しみを受けられたイエス・キリストが私たちが受けた不当な苦しみを負ってくださいます。キリストの苦しみによってしか私たちは受けた苦しみの傷は癒されることはないのです。
無慈悲な主人に恨みをいだき、憎悪し、さらには殺害したとしても、そのことで怨念は晴らせたとしても、受けた傷は癒されることはないのです。
私たちが人を憎悪するとき、神から離れてしまっています。さまよえる羊であります。
そのとき、私たちは十字架へと帰るべきであります。十字架を仰ぐとき、私たちの憎悪の罪、殺意の罪は贖われるのです。そしてキリストの足跡に続く者として再び歩み始めるのです。
説教要旨:
18節で、無慈悲な主人にも心からおそれ敬って従いなさい、と勧められています。
さらに「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」とも言われいます。
なかなか素直に聞き入れることのできない言葉です。
どうしてこのような言葉が発せられるのでしょうか。一つには終末、キリストの再臨の切迫があります。無慈悲な主人から受けた不当な苦しみに抗議するよりも、迫り来るキリストの再臨に備えるがことが何よりも大切であることが背景にあります。しかしそれだけではありません。キリストの足跡に続くことがキリスト者にとって重要であるとの理由です。キリストも不当な苦しみを十字架で受けました。
また私たちも不当な苦しみを無慈悲な主人から受けることがあります。
でも十字架で不当な苦しみを受けられたイエス・キリストが私たちが受けた不当な苦しみを負ってくださいます。キリストの苦しみによってしか私たちは受けた苦しみの傷は癒されることはないのです。
無慈悲な主人に恨みをいだき、憎悪し、さらには殺害したとしても、そのことで怨念は晴らせたとしても、受けた傷は癒されることはないのです。
私たちが人を憎悪するとき、神から離れてしまっています。さまよえる羊であります。
そのとき、私たちは十字架へと帰るべきであります。十字架を仰ぐとき、私たちの憎悪の罪、殺意の罪は贖われるのです。そしてキリストの足跡に続く者として再び歩み始めるのです。
時刻:
20:46

2011年06月19日「父への反抗と服従」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:創世記4章1~16節
説教要旨:
カインの弟アベルの殺人は表面的に読めば、兄カインのアベルへの嫉妬に原因があるように思えます。
カインが嫉妬しなければ、殺すこともないだろうにと思います。でもカインの嫉妬を起こさせたのは、神ではないか。神がどちらの献げ物にも目を留められたのなら、殺人は起こらなかったはずではないかと思います。神の偏愛が殺人の原因となっているとも考えられるのです。
カインはアベルへの嫉妬だけではなく、神に怒りを抱いています。自分の献げ物に目を留めなかった神への怒りです。でもカインは神に抗議の声を上げていません。ただ怒って神に顔を伏せたのです。
いわば面従腹背です。カインの知る神は怖い神です。抗議の声すら上げることのできない神です。
反抗の許されない、専制的な神です。ですからカインの居場所を問われて、「知りません」と答えたのです。
知っていると答えれば、さらに問い詰められ、殺人を犯したことを白状しなければならなくなる。そうしたら「目には目を、歯には歯を」の基準で死罪になるに違いないと思えば、知りませんとしか答えるほかなかったのです。
でも神は誰がアベルを殺したかはよくご存知です。隠し通せるものではありません。とうとうカインは罪を告白し、懺悔します。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と。犯した罪の重さをカインは知っています。
また自分に下される罰に対しての覚悟もしています。でもそのとき、神が告げたことは、怖い神しか知らないカインにとって、まことに意外な言葉でした。それは罪の赦しであったのです。またカインを誰も撃つことのないようにしるしをも神は付けられたのでした。
すでに十字架の主イエスがここに現れています。十字架のしるしがあります。聖書の神は確かに罪に対して怒りを覚える神です。しかし一方罪を犯した人間を赦す神でもあります。カインはこの赦す神を知らなかったのです。
赦されるには罪が処理されねばなりません。その処理を神はひとり子イエス・キリストの十字架を通してなされたのです。
神の怒りをすべてイエス・キリストが私たちに代わって十字架で負われることで、私たちの罪は贖われ、赦されるのです。
説教要旨:
カインの弟アベルの殺人は表面的に読めば、兄カインのアベルへの嫉妬に原因があるように思えます。
カインが嫉妬しなければ、殺すこともないだろうにと思います。でもカインの嫉妬を起こさせたのは、神ではないか。神がどちらの献げ物にも目を留められたのなら、殺人は起こらなかったはずではないかと思います。神の偏愛が殺人の原因となっているとも考えられるのです。
カインはアベルへの嫉妬だけではなく、神に怒りを抱いています。自分の献げ物に目を留めなかった神への怒りです。でもカインは神に抗議の声を上げていません。ただ怒って神に顔を伏せたのです。
いわば面従腹背です。カインの知る神は怖い神です。抗議の声すら上げることのできない神です。
反抗の許されない、専制的な神です。ですからカインの居場所を問われて、「知りません」と答えたのです。
知っていると答えれば、さらに問い詰められ、殺人を犯したことを白状しなければならなくなる。そうしたら「目には目を、歯には歯を」の基準で死罪になるに違いないと思えば、知りませんとしか答えるほかなかったのです。
でも神は誰がアベルを殺したかはよくご存知です。隠し通せるものではありません。とうとうカインは罪を告白し、懺悔します。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と。犯した罪の重さをカインは知っています。
また自分に下される罰に対しての覚悟もしています。でもそのとき、神が告げたことは、怖い神しか知らないカインにとって、まことに意外な言葉でした。それは罪の赦しであったのです。またカインを誰も撃つことのないようにしるしをも神は付けられたのでした。
すでに十字架の主イエスがここに現れています。十字架のしるしがあります。聖書の神は確かに罪に対して怒りを覚える神です。しかし一方罪を犯した人間を赦す神でもあります。カインはこの赦す神を知らなかったのです。
赦されるには罪が処理されねばなりません。その処理を神はひとり子イエス・キリストの十字架を通してなされたのです。
神の怒りをすべてイエス・キリストが私たちに代わって十字架で負われることで、私たちの罪は贖われ、赦されるのです。
時刻:
20:48

2011年06月5日「神の怒りと愛」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:マルコによる福音書3章1~6節
説教要旨:
今日の箇所でイエスは怒っています。それは人々の片手の萎えた人への態度に対して、また律法理解に対してであります。さらに彼らのイエスへの秘めた悪意に対してであります。
彼らは片手の萎えた人が癒されようが癒されまいが、どうでもよく、ただイエスを訴えようとしているだけであります。イエスが安息日に病人を癒すかどうかで訴えの口実を見つけようとしているのです。
癒せば、安息日規定の違反となります。訴えの口実ができます。彼らの目は片手の萎えた人にではなく、イエスへと注がれています。そんなとき、イエスは片手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われるのです。
イエスは人々の目を片手の萎えた人へと向けます。
目を向けた彼らにイエスは「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」と問いますが、彼らは答えることなく、黙っていたのです。
誰にも分かる簡単な問いであります。にもかかわらず彼らは答えず黙っていた。
安息日遵守こそが、律法遵守こそが彼らの命です。
でもその命は冷たい剣のような人を刺すようなものであり、それが人(片手の萎えた人)を殺すことになるのです。
私たちのかたくなな心は時として人を殺すことがあります。文字通りの殺人ということではなくても、人に致命的ダメージを与えることがあるのです。
イエスは彼らのかたくなな心に怒ると同時、すぐに悲しみをもって彼らに臨まれるのです。
この時点でイエスは十字架へと向かっています。彼らのかたくなな心がイエスを十字架へと向かわしめています。でもその十字架でイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と神にとりなしたのでした。
神の怒りは悲しむへと変わり、その悲しみは神の愛として十字架で結実したのです。
私たちのかたくなな心も神は怒っています。でもその怒りをイエスは私たちに代わって十字架ですべて負われたのです。そのことで私たちは救われたのです。
説教要旨:
今日の箇所でイエスは怒っています。それは人々の片手の萎えた人への態度に対して、また律法理解に対してであります。さらに彼らのイエスへの秘めた悪意に対してであります。
彼らは片手の萎えた人が癒されようが癒されまいが、どうでもよく、ただイエスを訴えようとしているだけであります。イエスが安息日に病人を癒すかどうかで訴えの口実を見つけようとしているのです。
癒せば、安息日規定の違反となります。訴えの口実ができます。彼らの目は片手の萎えた人にではなく、イエスへと注がれています。そんなとき、イエスは片手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われるのです。
イエスは人々の目を片手の萎えた人へと向けます。
目を向けた彼らにイエスは「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」と問いますが、彼らは答えることなく、黙っていたのです。
誰にも分かる簡単な問いであります。にもかかわらず彼らは答えず黙っていた。
安息日遵守こそが、律法遵守こそが彼らの命です。
でもその命は冷たい剣のような人を刺すようなものであり、それが人(片手の萎えた人)を殺すことになるのです。
私たちのかたくなな心は時として人を殺すことがあります。文字通りの殺人ということではなくても、人に致命的ダメージを与えることがあるのです。
イエスは彼らのかたくなな心に怒ると同時、すぐに悲しみをもって彼らに臨まれるのです。
この時点でイエスは十字架へと向かっています。彼らのかたくなな心がイエスを十字架へと向かわしめています。でもその十字架でイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と神にとりなしたのでした。
神の怒りは悲しむへと変わり、その悲しみは神の愛として十字架で結実したのです。
私たちのかたくなな心も神は怒っています。でもその怒りをイエスは私たちに代わって十字架ですべて負われたのです。そのことで私たちは救われたのです。
時刻:
21:27

2011年05月29日「新しい世界の告知」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:使徒言行録11章19~26節
説教要旨:
今日の聖書の箇所は初代キリスト教会がどのようにして、世界伝道へと向かったかが記されています。
当初初代クリスチャンはユダヤ教の枠内で伝道活動をしていました。
ユダヤ人以外の人にキリストの福音を語るということをしてしませんでした。
しかしステファノの殉教以後、事態は変化します。
ステファノの殉教以後、律法に対して自由な態度をとるヘレニスト・ユダヤ人(ギリシャ語を話すユダヤ人)に対して迫害が起こり、彼らはエルサレムから逃れ、各地に散ることになります。その逃れた一つの都市がアンテオキアでありました。
そのアンテオキアで教会ができ、そこにユダヤ人以外にも福音を伝道する人たちが現れたのです。そして21節にもあるようにその異邦人伝道は進展し、主イエスを受け入れる者が多く誕生したのです。ここにキリスト教はユダヤ教という枠を超え、世界宗教へと発展する糸口を見つけたのです。
このことは主の御手が働くことで起こりました。主の御心は世界のすべての民の救いであります。
ユダヤ人という枠が破られることで御心は前進することになりました。
そのことのためにパウロやバルナバなどが主によって用いられることになります。
ユダヤ民族という枠が破られ、世界の民へと福音伝道が進展していくことで、それまでにない新しい世界が誕生し始めたのです。パウロが言うように「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない、キリスト・イエスにおいて一つ」(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)という新しい世界が明け染めたのです。
説教要旨:
今日の聖書の箇所は初代キリスト教会がどのようにして、世界伝道へと向かったかが記されています。
当初初代クリスチャンはユダヤ教の枠内で伝道活動をしていました。
ユダヤ人以外の人にキリストの福音を語るということをしてしませんでした。
しかしステファノの殉教以後、事態は変化します。
ステファノの殉教以後、律法に対して自由な態度をとるヘレニスト・ユダヤ人(ギリシャ語を話すユダヤ人)に対して迫害が起こり、彼らはエルサレムから逃れ、各地に散ることになります。その逃れた一つの都市がアンテオキアでありました。
そのアンテオキアで教会ができ、そこにユダヤ人以外にも福音を伝道する人たちが現れたのです。そして21節にもあるようにその異邦人伝道は進展し、主イエスを受け入れる者が多く誕生したのです。ここにキリスト教はユダヤ教という枠を超え、世界宗教へと発展する糸口を見つけたのです。
このことは主の御手が働くことで起こりました。主の御心は世界のすべての民の救いであります。
ユダヤ人という枠が破られることで御心は前進することになりました。
そのことのためにパウロやバルナバなどが主によって用いられることになります。
ユダヤ民族という枠が破られ、世界の民へと福音伝道が進展していくことで、それまでにない新しい世界が誕生し始めたのです。パウロが言うように「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない、キリスト・イエスにおいて一つ」(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)という新しい世界が明け染めたのです。
時刻:
19:16

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