2009年4月26日「すべての民を弟子とせよ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マタイによる福音書28章16~20節
18、イエスは、近寄ってきて言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19、だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け
20、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

説教要旨

今日の箇所はいわゆる主イエスの大宣教命令といわれているもので、多くのキリスト者たちを伝道へと突き動かしてきた御言葉であります。「すべての民をわた しの弟子にしなさい」(19節)といわれていますが、主の弟子になるとはどういうことを意味しているのでしょうか。
それは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)との御言葉と関係しています。それは主イエスの主権のもとに入るということを意味していま す。主イエスに一切を献げ、支配をゆだね、従うということであります。いかなるこの世的権能にもひれ伏さないということです。また主の権能を超えて権能を 振るおうとするこの世的権能は拒否するということでもあります。これが真の主の弟子性であります。

しかしこの弟子性を貫徹することは容易なことではありません。事実多くのキリスト者はこの世の権能に妥協し、またおもねり、ひれ伏すことさえしてき たのであります。この世の権能が悪魔的なものであっても、そうしてきたこともあります。
そんな弱い私たちでありますが、主はいつも私たちと共にいてくださると約束されておられます。共にいて私たちに力を与えてくださっておられます。
宣教師たちは激しい迫害の中にあっても、この主の約束を堅く信じ、福音宣教に邁進していったのであります。伝道困難な日本でありますが、私たちも主の約束 を堅く信じ、福音宣教に励んでいきたい。

2009年4月19日「空しさの中で」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書21章1~14節
4、既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
5、イエスが、「子たちよ、なにか食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
6、イエスは言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げること ができなかった。
7、イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

説教要旨

イエスの弟子たちは、復活の主イエスにすでに2度会っているのですが、まだ主は復活されたということに対して半信半疑であります。確信がもてないでいま す。
確信がもてないとき、復活のことに限らずいろいろなことにおいて何か虚ろなものを私たちは感じます。

特にこれからの人生、どのようにして生きていったらいいのかという問いに対して、はっきりとしたこれといった確信がもてないとき、心は虚ろでありま す。人生のすべてを賭けてきたものが失われたときは特にそうであります。
弟子たちは主イエスにすべてを賭けて生きてきたのです。それが十字架で死んでしまい、賭けてきたものが失われました。

しかしそのあと復活の主イエスが彼らのところに現われても、彼らは簡単には信じることができませんでした。復活の確信がもてないでいたのです。彼ら の心は、主イエスなきままで、これからどう生きていったらいいのかわからない空しさに支配されていました。
そんな中復活の主イエスはまた彼らのところに現われ、復活の確信へと導くのです。まさに3度目の正直という感じです。

弟子たちを復活の確信へと導いたものは、網が破れそうになるほどの大量の魚の捕獲でありました。神の圧倒せる恵みでありました。
ルカ福音書5章にもこれと似た話が記されています。おそらく弟子たちはかつてあった同じようなことがまた起こったことで、「あああのときと同じだ」と悟 り、主イエスは確かに復活したのだと確信したのでしょう。

私たちが復活の主を見失っているとき、弟子たちと同じように私たちの心は空しさに支配されます。しかし復活の主イエスを見出すとき、空しさは終わり を告げ、主は生きて今も私たちと共におられるとの確信をもてるようになり、生きる喜びと希望をもって主と共に前進することができるのです。

2009年4月12日「信じる者になりなさい」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章24節~31節
24、12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25、そこで、ほかの弟子たちが、「私は主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手 をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
26、さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和 があるように」と言われた。

説教要旨

イエスさまは29節で弟子のトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。
よく考えてみれば、トマスは復活の主を見ただけでは信じられない、触らないと信じられないと言っています。ですから主イエスの言葉は何かトマスには不適切 なように思われます。言うなら「わたしに触れたから、あなたは信じたのか」となるはずであります。

そのようには言われなかったということは、実はトマスは復活の主に触ることをしなかったのではないでしょうか。主イエスは信じられないトマスに「あ なたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と 言われたのです。
しかしトマスはその主イエスの言葉で十分でありました。あえて触れることまでしなくても、その言葉でトマスは主イエスであることを悟ったのです。

そして告白します。「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と。
復活信仰の真髄は、見たから信じる、触れたから信じるというところにはなく、主イエスの言葉に触れ、神の御子イエス・キリストを信じるところにあるので す。 トマスは実は主イエスが言われる「見ないのに信じる人は、幸いである」との祝福の言葉を受ける側の人間に立っているのです。私たちは主イエスを目で見るこ とはできません。またそのからだに触れることもできません。しかし御言葉に触れ、御言葉に生かされることはできます。
そのとき確かに主イエスは復活し、今も生きて私たちに働いておれることを実感できるのです。

2009年4月5日「イエスさまは私たちの御者」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書11章1~11節
1、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2、言われた。「向こうの村に行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさ い。
3、もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐにお返しになります』と言いなさい。
7、二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

説教要旨

今日は棕櫚の日です。主イエスがエルサレムに入城された日です。入城されるに際して主イエスは子ろばに乗られたのです。これには意味があります。
まずゼカリヤ書9章9節10節と関係しています。
メシアはろばに乗ってこられるとの預言の成就としての意味があります。メシアは決して勇ましい馬に乗ってくるのではなく、戦争とは無縁のろばに乗ってくる のだということです。つまり平和の主として来られるということです。

平和の主としての主イエスに私たちは歓呼の叫び声を挙げたい。
しかし今日の箇所の群衆はそんなメシアをイエスに期待していたのではなかったのです。あくまでローマ帝国を打ち負かすような勇ましいメシアを主イエスに期 待していたのです。ですから抵抗することもなく十字架につけられるようなひ弱な主イエスに失望し、主イエスを嘲笑するような態度へと変わっていくのです。

しかし十字架の主イエスこそが、メシアであることを聖書は告げています。 群衆と同じような見方や態度をとることしかできない私たちの罪を主は十字架で贖なわれました。私たちの罪はすでに十字架の主によって担われ、贖われていま す。
その恵みに私たちはどのように応えていったらいいのでしょうか。それは罪の重荷をすでに解かれた私たちでありますから、今度は主イエスを担うということで 十字架の恵みに応えるのです。

すなわち子ろばとしての私たちの使命があります。主イエスによって子ろばのようにご用に用いられることです。
主が導くままに従っていく、そのような子ろばの御者として主イエスを担うのです。一人で担うのではなく、皆で共に担うのです。そこにキリストのからだとし ての教会があります。教会は御者であり平和の主であるイエス・キリストに従順に従うことで キリストのからだとしての教会の使命を果たしていくのです。

2009年3月29日「一粒の麦」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書12章20~29節
23、イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
24、はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
25、自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
26、わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父 はその人を大切にしてくださる。

説教要旨

主イエスは一粒の麦の死のことについて言われます。主イエスはここでは、麦の種のことを言っているのです。種がそのままでは種のままであり、決して実を結 ぶことはありません。種が種でなくなることで実を結ぶことを言われているのです。

種が種でなくなるとは、私たちの自我が新たなものへと変わることを意味します。「自分の命を愛する者」とは自我を愛する者と言い換えてもいいことで す。自我を愛し続ける限り、私たちには新生がないことを語っているのです。新生がないところに実を結ぶことはありません。

一方自我に死ぬ者は新しい命を与えられ、その命は永遠の命という実を結ぶことを主イエスは教えているのです。では一体自我に死ぬにはどうしたらいい のでしょうか。それは主イエスの十字架の血潮を受けることです。十字架は私たちの自我を打ち砕きます。打ち砕かれた自我に代って、十字架の主イエスを受け 入れるとき、私たちの内に新生の出来事が起こるのです。

2009年3月22日「神の子羊イエス」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章29~34節
29、その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。
30、『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである。』とわたしが言ったのは、この方のことであ る。
31、わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けてきた。」
32、そしてヨハネは証しした。「わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

説教要旨

バプテスマのヨハネは主イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(29節)と言いました。
これはキリスト者にとっても大切なことであります。私たちは他の誰でもない主イエスが「世の罪を取り除く」御方であることをまず指し示すべきであるので す。

歴史的に見れば、教会は主以外のものを指し示すことがありました。世の罪を取り除く神の子羊よりも偶像的なものを指し示すことがありました。
ま た主イエスを指し示すことをしても、「世の罪を取り除く」主であることが軽んじられることもありました。

また主イエスではなく、ルターやカルヴァンを指し示すこともありました。ルターやカルヴァンはヨハネと同じように「世の罪を取り除く神の子羊」を指 し示そうとしたのです。
その後継者たちはともすればそうではなく、主イエスよりもルターやカルヴァンの権威を重んじるようなところもありました。 主イエスがルターやカルヴァンの権威に服するような面があったのです。その結果教会の分裂ということも起こりました。

私たちは主イエス・キリストの権威に服するべきであるのです。
主の権威に服するとは、私たちが人間ゆえに犯す罪を十字架の主にゆだねることでもあります。ゆだねて主イエスに罪を処理してもらうことです。
ゆだ ねることができないとき、十字架は見えなくなっていきます。主にゆだねるとき、神との和解、また人間相互の和解も起こってくることを覚えたい。

2009年3月15日「神の全き犠牲」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙9章11~28節
11、けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものでは ない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、
12、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
27、また、人間はただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
28、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたら すために現れてくださるのです。

説教要旨

今日の箇所は大祭司キリストのことが言われています。
旧約時代の祭司とは違い、キリスト自らが神と私たち人間との和解のためにその身を十字架に犠牲(いけにえ)として献げられたことが説かれています。動物の 犠牲を介することなく、直接的に神と私たち人間との和解のための仲保者となられたのです。

なぜなら動物の犠牲では不完全であるということです。また他の人間の犠牲でも不完全であるということです。どのような人間も罪人であり、どのような 業を積んでも罪人であることから自由になることはできず、神との和解を自らの力ではできないからです。

神自らが手を差し伸べてくださらない限り、私たちには神との和解は不可能なのです。そのため愛する御子イエス・キリストが私たちに差し出され、動物 に代わる犠牲として献げられたのです。
そしてその犠牲は一度限りであります。ゆえに非常に重い意味をもっているのです。

なぜ重いのでしょうか。それは一度に全人類の罪を担い、贖うからです。ほかの誰も一度にそんなことができる人はいません。誰もそんなことをしたら、 一瞬のうちにつぶれてしまいます。
それは神の御子イエス・キリストのみができることであるのです。言い換えれば十字架の一点に私たちの全人類の罪がのしかかっているのです。

そして十字架の犠牲は完全なる犠牲です。中途半端な犠牲ではありません。
10パーセント罪が贖われた、あるいは50パーセント、はたまた99パーセント贖われたというものではありません。100パーセントの贖いです。完全に清 く罪なき御方イエス・キリストであるから、100パーセントの罪の贖いが果たされるのです。
ここに私たちの平安があります。私たちはその平安に身をゆだねることがイエス・キリストの犠牲ゆえにゆるされているのです。その平安は、私たちが世にあっ て生きている日々においても、また世を去るときにも、最後の審判の日にもあずかることができるものなのです。