2010年07月11 日「土の器に宝」渡辺敏雄牧

説教箇所:コリントの信徒への手紙二、4章7~15節

説教要旨:
パウロは自身を「土の器」と看做しています。土の器、それはもろく弱く壊れやすいものであります。
パウロだけでなく、私たちもまた土の器のようなものであります。
でもそのことを認めることは現社会においてプラスに働かない面があります。
弱肉強食のこの時代、自身を土の器であると言うことは勇気がいることであります。
特に若いときには勇気が要ります。そんな弱い人を世間は評価しません。
しかし年をとるにつれて、そのことを実感することとなっていきます。
でもそうなる前に私たちはやはり土の器であることを知り、それゆえに神の力を必要とするものであることを認めることは大事なことであります。
私たちは土の器であるがゆえに、その器を強め、守ってくれる御方を必要としているのです。その御方がイエス・キリストであることをパウロは語っています。
特にキリストの十字架の死と自分を重ね合わせて語っています。
パウロもかつては自分を土の器とは思っていませんでした。自身に自信をもって生きていました。でもキリストと出会ってからは、変わりました。
キリストの十字架によって、そのような生き方を打ち砕かれ、まさに土の器であることを実感したのです。しかしキリストの十字架は古い生き方の自分を死へと
向かわしめると同時に、新しい命を与えたのです。土の器であるパウロを今生かしているのは内に宿っているキリストの命であるのです。

2010年06月27 日「主イエスの死といけにえ」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マルコによる福音書10章32~34節
      ヨハネの手紙一、4章7~11節


説教要旨:
人間が住む社会には、いけにえという習俗があるといえます。
共同体の違いから、形式的には多様性がありますが、内容的には共通した同種のものが見られます。それは共同体が混乱し、統制がとれないとき、秩序を守るために、ある種の暴力をもっていけにえという行為が行われるという点において共通しているのです。
旧約聖書においてもヨナ書に出てくる預言者ヨナを荒れ狂う嵐の海に、嵐を鎮めるための
いけにえとして放り込むことなどにおいて見られます。
新約聖書においては、それはイエス・キリストの受難において見ることができます。
主イエスは当時のユダヤ教宗教社会から見て危険な人物と見られていました。
当時の宗教的権威を臆することなく批判していたからであります。当時の社会に支配的であった宗教的生活様式に異を唱えていたからであります。
宗教的社会を混乱に陥れる危険人物として排除されるべき対象となっていたのです。
そして人々はいけにえとして主イエスを十字架へと追いやるのであります。
しかし主イエスは、人々のいけにえにしようとする力に負けたのではなく、これまで伝統的に行われてきたいけにえに対して死を十字架で宣告されたのです。
もはやいけにえを必要としない社会の到来を宣言しているのです。
今日でも世界中において、いけにえの儀式は行われています。社会において異質と看做される人々が社会から排除されることが起こっています。十字架を無視した行為が行われています。いけにえにされるべきでない人たちがいけにえにされ犠牲になっています。
私たちキリスト者は、御国の到来を祈るとともに十字架ゆえにキリストと共にそのことに抗議すべきであるのです。

2010年06月20 日「託された使命」渡辺敏雄牧師

説教箇所:使徒言行録3章1~10節

説教要旨
聖霊を受けてイエスの弟子たちはこの世へと押し出されていきました。それは神の国の福音を宣べ伝えるためであります。
主イエスがそうであったように、彼らもまた福音宣教の第一線へと赴いたのであります。主イエスのなさんとされたことを彼らもまたなすためであります。
それには聖霊が必要でした。聖霊を受けることで主イエスの道を彼らも歩み始めたのであります。今日を生きる私たちもまた弟子たちと同じように主イエスの道を歩むことが求められています。
その道に癒しのわざを行うということもあるのです。今日の箇所では弟子たちは足の不自由な男を癒すということをしております。
主の道を歩みことでそこに主はかならず豊かに臨在されます。主が豊かに臨在するなら、そこに癒しのわざもまた起こるはずです。
主の道において、主イエスは聖霊において豊かに臨在し、豊かに癒しのみわざを現します。2000年前に起こった奇跡が見えるしるしとして今日でも必ず起こるとは限りません。
むしろ見えない形において起こることの方が多いのです。どのようにしてそれは起こるのか。それは関係性の中で起こります。
まず関わりをもつところから起こるのです。無関心のままでは何も起こりません。弟子たちと男はまず深い関係をもちます。表面的なうわべの関係ではありません。
施しを求めている男に対して、わずかばかりのお金を与えることで終わる関係ではありません。主イエスの御名を介しての関係です。主イエスが両者の間に豊かに臨在することで起こる関係です。主イエスの御手が両者を包むような中で起こる関係です。
そこに癒しのみわざが現れるのです。目に見えるような形での癒しではなくても、人の内面において変化を生むような癒しがそこに必ず起こることを覚えたい。

2010年06月06 日「イエスの癒し」渡辺敏雄牧師

説教箇所:マルコによる福音書8章22~26節

説教要旨:
今日の箇所でひとりの盲人がイエスによって癒されています。福音書には多くの癒しの物語があります。ということは主イエスの「神の国」の宣教活動に「癒し」はなくてはならない不可欠なわざとしてあったということであります。しかし主イエスの癒しは現世ご利益を目的にしたものではなく、あくまで神の国の成就のためであります。
主イエスの癒しは精神の癒しというだけにとどまらず肉体の癒しも含まれています。人間のトータルな癒しであります。今日の箇所の盲人もまた単に肉眼で見えるようになったというだけではなく、霊的な目が開かれたことも私たちは覚える必要があります。なぜなら主イエスは2度にわたり癒そうとされておられるからであります。一回目において、盲人はまだはっきりと見えていません。人間が木のように歩いているのが見えると言っています。そして2回目においてはじめて、はっきりと見えるようになったと記されているのです。これはどういうことでしょうか。一回目のときはまだ主イエスの癒しのパワーが足りなかったということでしょうか。足りないから、はっきりと見ることができなかったのでしょうか。だからもう一回同じことをしたのでしょうか。そうではないでしょう。おそらく主イエスは最初のときは、盲人の背後から両手を目に置いたのではないのでしょうか。そのときははっきりと見ることができなかった。しかし2回目のときは、主イエスは盲人の前に立ち、両手を目に置いたのではないのでしょうか。するとはっきりと見えるようになったのではないのでしょうか。私たちは主イエスとの位置関係によって見える度合いが違ってくるのではないのでしょうか。すなわち、主イエスを背後に置くとき、私たちははっきりと物事を見ることができないのです。主イエスを前にするとき、すなわち主イエスと相向かい合う位置関係に立つときはじめてはっきりと見えるようになるのではないのでしょうか。それは肉眼でもって物が見えるというレベルにとどまらず、霊的に物事を見ることが
できるというレベルへと引きあげられることであります。霊的に物事を見ることができるとは、主イエスを前にして、主イエスを通して見るときに起こるのです。主イエスを通さずして見るとき、私たちはなかなか物事の真理をはっきりと見ることができないのです。私たちはたえず主イエスを前にして、主イエスの御声に忠実に従うときに私たちの真の癒しは起こるのです。

2010年5月30 日「新しい生き方」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書13章10~7節

説教要旨:
今日の箇所で主イエスは18年間も腰の曲がったままの女性を癒しております。しかしその日は安息日でありました。旧約聖書の教えでは、その日は何もしてはいけない日でありました。その日は癒しさえしてはいけない日とみなされていたのです。その戒めをイエスは破ることをします。会堂長は安息日に女性が癒されたゆえに、腹を立てます。しかし主イエスは言います。「18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と。
この言葉から「人のために安息日はある。安息日のために人があるのではない」というイエスの安息日規定からの解放宣言が響いてまいります。イエスの「女性は18年もの間サタンに縛られていた」との言葉を私たちは誤解しないようにする必要があります。女性が病気なのは、サタンのせいであると誤解することは誤りです。イエスの言わんとするところは、安息日規定に人が奴隷になっているような状態こそがサタンに縛られていることであるのです。
女性もまた当時のユダヤ人社会の支配的な考えのもと生きていましたから、安息日規定を破ることなど眼中にないことでした。ですから癒しを行うとされるイエス様が目撃しながれも、自分の方から癒してくださいと申し出ることができなかったのです。そんな女性の囚われた考えも主イエスは解き放たれていかれるのです。現代人である私たちもまた時代の支配的な考えに囚われるということはあります。その囚われが非人間的な作用を及ぼすことがあります。差別偏見というような形において現れます。主イエスはそのような誤った考えから私たちを解き放つためにもこの世に来られたのです。
主イエスに従うとは、主イエスの自由を共に共有することでもあります。主イエスによって自由にされた私たちは、時代の支配的な考えからも自由にされて生きる者であることを覚えたい。

2010年5月23 日「コミュニケーションの回復」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録2章1~11節

説教要旨
今日の箇所では、不思議なことが起こっています。知っているはずのない他国の言葉でめいめいが話し始めたのです。そして意志の疎通ができたのです。そんなことは起こりうるはずがないと思われますが、事実起こったのです。起こりえないことを引き起こすのが聖霊の働きであります。今日世界は意志の疎通ができない状態がいろいろなところであります。国と国と、民族と民族、異なる宗教間において、人と人との間であります。言語を同じくする人の間ですらあるのです。私たちは言語を統一すれば、文化を統一すれば、政治や経済を統一すれば宗教を統一すれば、意志の疎通は容易になると考えます。しかし必ずしもそうではありません。本当に私たちの意志の疎通にとって必要なのは、聖霊であります。
聖霊は言語の壁を乗り越えていきます。文化、政治、経済、宗教の壁を乗り越えていきます。信徒言行録はその証しと言える書であります。普段なかなか意志の疎通のできない者の間に聖霊が降ると意志の疎通が可能となるのです。さらにそこに信仰者が生まれることさえ引き起こすのです。

2010年5月16日「聖霊による喜びの充満」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章17~24節

説教要旨
主イエスは聖霊によって喜びに溢れています。聖書では、聖霊は喜びと深く結びついています。ガラテヤの信徒への手紙5章22節では聖霊の結ぶ実として愛、喜び、平和などあげられています。
私たちの人生において喜びのない人生など誰も望みません。誰もが喜びに満ちた人生を送りたいと思っています。でも人生はそんなに甘くはなく、苦難の連続といっても言い過ぎではありません。私たちにとって、苦難の中で喜ぶことは至難のわざであります。しかし聖霊はどんなときにも喜びを与えてくれます。
テサロニケの信徒への手紙一、5章16節では「いつも喜んでいなさい」と勧められています。いつも喜ぶ秘訣は聖霊です。聖霊なしで私たちはいつも喜ぶことなど到底無理なのです。主イエスが喜びに溢れた背景には、悪霊が神に服従し、聖霊が支配する時になったことがあります。聖霊が支配するとは、愛、喜び、平和が支配するときであるということです。主イエスはその生涯において、そのことを証しされたのであります。知恵ある者や賢い者はそのことが分かりません。信じられません。
しかし幼子のような者にはそのことが開示され、信じることをえさせてくださいます。幼子のような者とは、神様なしには自分は生きられないことを謙虚によく知っている者です。神に全く依存する者であります。
幼子のような者は、世の中がどんなに暗くあろうとも、聖霊の支配を信じているがゆえに、一切を神に望みをおくがゆえに、天から差し来る神の栄光の光を見ることができ、そのことで喜びに満たされるのです。