聖書箇所:マタイによる福音書26章17~35節
説教要旨:
最後の晩餐における弟子たちの姿は私たちと無縁では決してありません。
イエスが弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」といわれた時、ペトロはじめ弟子たちは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったのです。
しかしその後の弟子たちは、イエスを裏切り、見捨てることをするのです。
弟子たちの強がり、虚勢は裏返せば弱さを隠すものです。
彼らにはその意識がなくても、心の奥では弱さが潜んでいるのです。
私たちはともすれば弟子たちと同じように自分の弱さを認めず、強がりを言います。
その結果人を裏切ることもあります。
イエスはそんな私たちの弱さをよくご存知です。
イエスの言葉に対して、強がりなど言わず、沈黙するならまだ罪も軽いでしょうが、彼らは皆そうではなかったのです。
どうしてイエスはそんな彼らを弟子として選んだのでしょうか。
イエスが神の子であるなら、見抜けないはずがなかろうと私たちは思います。
イエスはあえてそんな者を弟子として選ばれたのです。
それは最後の晩餐が意味するところへと私たちを導きます。
弟子たちは何か優れた才能があったから選ばれたのではありません。
人格的に優れていたからでもありません。
皆弱さを隠し、虚勢を張る結果、イエスを裏切る者としてすでに召命の段階で見通されて選ばれているのです。
選びの段階からすでに最後の晩餐が目指されていたといえるのです。
イエスを裏切るほどの罪深い者としてあるにもかかわらず、彼らは皆最後の晩餐にあずかっています。それはどんなに罪深い者も主イエスの十字架の血潮によって罪が贖われるということを示しています。
十字架の恵みはどんな大きな罪よりも大きいのです。
私たちは主の御前にあっては、弱さを隠す必要はありません。
強がりなど言わずに己の弱さを素直に認めればいいのです。
弱さを認めず、強がりを言った弟子たちでさえ、イエスは復活後に彼らの前に現れ、再び彼らを召すのです。なぜならこの時、彼らは皆己の弱さをとことん知った者になっていたからであります。
そのこともイエスは最後の晩餐のとき、すでに知っていたのではないのでしょうか。
それゆえに最後の晩餐を彼らと共にしたのではないのでしょうか。
2013年03月17日「十字架を目の前に」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙3章1~6節
説教要旨:
1節で「ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち、誰があなたがたを惑わしたのか。
目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言われています。
今は福音から離れてしまっているガラテヤの信徒たちも、かつては主の十字架における贖罪の恵みを信じ、受け入れたのです。
それが律法主義者たちの惑わしで、やはり救われるには割礼も必要なのではないのか、律法も必要ではないのかと考えるようにまでなってしまったのです。特にユダヤ人クリスチャンの間でそのように考えられたのです。
これでは福音から律法主義への逆戻りです。
律法主義者たちは主イエスの兄弟ヤコブの権威を笠に着ていました。
当時においてエルサレム教会の中心人物は主の兄弟ヤコブになっていました。
ヤコブの権威は非常に強くありました。しかし主の兄弟というだけで権威があるのでは、霊的権威とはいえません。肉的な権威、この世的な権威であります。
しかし人間はこの世的な権威に弱いのです。彼らは単に物分りが悪いというだけでなく、この世的な権威に抗するのではなく、この世的権威におもねる形でうまく振舞ったとも言えるのです。
霊によって始まった信仰が今危機に陥れられています。
今肉によって仕上げられようとしています。
私たちもガラテヤの信徒のようになる危険があります。私たちは人に従うよりも神に従うべきであります。
律法主義者は肉的な権威に従いますが、福音に生きる者は霊的権威に従います。
霊的な権威に従い、福音に生きる上で大切なことは、私たちの目の前に十字架のイエス・キリストがいつもはっきりと示されていることが何よりも大切なのです。
説教要旨:
1節で「ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち、誰があなたがたを惑わしたのか。
目の前にイエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言われています。
今は福音から離れてしまっているガラテヤの信徒たちも、かつては主の十字架における贖罪の恵みを信じ、受け入れたのです。
それが律法主義者たちの惑わしで、やはり救われるには割礼も必要なのではないのか、律法も必要ではないのかと考えるようにまでなってしまったのです。特にユダヤ人クリスチャンの間でそのように考えられたのです。
これでは福音から律法主義への逆戻りです。
律法主義者たちは主イエスの兄弟ヤコブの権威を笠に着ていました。
当時においてエルサレム教会の中心人物は主の兄弟ヤコブになっていました。
ヤコブの権威は非常に強くありました。しかし主の兄弟というだけで権威があるのでは、霊的権威とはいえません。肉的な権威、この世的な権威であります。
しかし人間はこの世的な権威に弱いのです。彼らは単に物分りが悪いというだけでなく、この世的な権威に抗するのではなく、この世的権威におもねる形でうまく振舞ったとも言えるのです。
霊によって始まった信仰が今危機に陥れられています。
今肉によって仕上げられようとしています。
私たちもガラテヤの信徒のようになる危険があります。私たちは人に従うよりも神に従うべきであります。
律法主義者は肉的な権威に従いますが、福音に生きる者は霊的権威に従います。
霊的な権威に従い、福音に生きる上で大切なことは、私たちの目の前に十字架のイエス・キリストがいつもはっきりと示されていることが何よりも大切なのです。
時刻:
20:06

2013年03月10日「十字架のもとに立つ」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書8章1~11節
説教要旨:
今日の箇所で、律法学者やファリサイ派の人たちは悪意をもってイエスのところへ姦通の現場で捕らえてきた婦人を連れてきます。そしてイエスを試します。
律法では姦通の罪の女は石で打ち殺せといわれているが、イエスはどう考えるかと彼らは問います。彼らは、イエスが律法の通りに打ち殺せよといえば、日頃愛やゆるしを説いているイエスの姿とは違い矛盾していると問い詰めることができ、またゆるせと言えば、イエスは律法を軽視しているけしからぬ奴であると攻撃できるのです。要するに彼らは女を手段にしてイエスを攻撃批判したいのです。
イエスはそれに対して何も答えず、地面に何かを指で書きます。
この動作はイエスが答えに窮しているからではありません。彼らの悔い改めを待っているのです。
しかし彼らはなおもしつこく問い続けるので、イエスはとうとう「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言われるのです。
この言葉を聞いて、人々は女のもとから去っていきます。それはまたイエスのもとから去っていくことでもあります。
その場に残ったのはイエスと女だけでありました。
ここで注意したいことは、イエスは「罪なき者が石を投げるがよい」と言われているだけであって、投げることのできない者はこの場を立ち去れとは言ってません。しかし人々は立ち去ったのです。どうしてでしょうか。
その場になおもいて、イエスがどうされるのか見ていても良かったのではないでしょうか。しかし彼らはそうはしなかった。
そうしなかった理由が二つあります。
まず第一に、彼らは、自分も確かに罪を犯す存在であるが、姦通のような罪を犯すほど悪い者ではないと思っていたから、女に石を投げることはできないが、またこの場に罪深い女と一緒にいることはできない、自分は女とは違う存在である、一緒にされては困るとの思いから、女のもとから立ち去ったのです。
しかし彼らも女と一緒にイエスのもとに残るべきでありました。彼らも罪人であることには変わりはないからです。
イエスのもとにあって罪のゆるしを女と同様に受けるべきであったのです。
第二に、彼らは神の子としてイエスを見ていませんので、神のみが罪をゆるすことができるとの考えのもと、イエスのもとにとどまり続けることはできなかったのです。イエスから罪のゆるしを受ける気など毛頭なかったからです。
私たち皆は主イエスのもとにとどまり続けることが必要です。罪の軽重を自分の尺度ではかり、自分の罪を他者の罪よりも軽いとみなせば、その他者とは距離を置く、その他者と交わることを避けてしまう。イエスはそんな私たちの罪ある姿を見抜いています。どちらも罪を犯したことにおいて一緒ではないのか。罪の軽重は神が決めることであるのではないのか、それゆえに神のみが罪をゆるす権威をもっているのではないのか。
自分の罪の軽重を自己査定していくことで、結局自己義認に陥っているのではないのか。
私たちは深く反省し、悔い改める必要があるのではないでしょうか。主イエスの十字架のもとに立ち続けることで、私たちはたえずそんな自己義認の罪を悔い改め、また罪のゆるしを主イエスに乞うものでありたい。
説教要旨:
今日の箇所で、律法学者やファリサイ派の人たちは悪意をもってイエスのところへ姦通の現場で捕らえてきた婦人を連れてきます。そしてイエスを試します。
律法では姦通の罪の女は石で打ち殺せといわれているが、イエスはどう考えるかと彼らは問います。彼らは、イエスが律法の通りに打ち殺せよといえば、日頃愛やゆるしを説いているイエスの姿とは違い矛盾していると問い詰めることができ、またゆるせと言えば、イエスは律法を軽視しているけしからぬ奴であると攻撃できるのです。要するに彼らは女を手段にしてイエスを攻撃批判したいのです。
イエスはそれに対して何も答えず、地面に何かを指で書きます。
この動作はイエスが答えに窮しているからではありません。彼らの悔い改めを待っているのです。
しかし彼らはなおもしつこく問い続けるので、イエスはとうとう「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言われるのです。
この言葉を聞いて、人々は女のもとから去っていきます。それはまたイエスのもとから去っていくことでもあります。
その場に残ったのはイエスと女だけでありました。
ここで注意したいことは、イエスは「罪なき者が石を投げるがよい」と言われているだけであって、投げることのできない者はこの場を立ち去れとは言ってません。しかし人々は立ち去ったのです。どうしてでしょうか。
その場になおもいて、イエスがどうされるのか見ていても良かったのではないでしょうか。しかし彼らはそうはしなかった。
そうしなかった理由が二つあります。
まず第一に、彼らは、自分も確かに罪を犯す存在であるが、姦通のような罪を犯すほど悪い者ではないと思っていたから、女に石を投げることはできないが、またこの場に罪深い女と一緒にいることはできない、自分は女とは違う存在である、一緒にされては困るとの思いから、女のもとから立ち去ったのです。
しかし彼らも女と一緒にイエスのもとに残るべきでありました。彼らも罪人であることには変わりはないからです。
イエスのもとにあって罪のゆるしを女と同様に受けるべきであったのです。
第二に、彼らは神の子としてイエスを見ていませんので、神のみが罪をゆるすことができるとの考えのもと、イエスのもとにとどまり続けることはできなかったのです。イエスから罪のゆるしを受ける気など毛頭なかったからです。
私たち皆は主イエスのもとにとどまり続けることが必要です。罪の軽重を自分の尺度ではかり、自分の罪を他者の罪よりも軽いとみなせば、その他者とは距離を置く、その他者と交わることを避けてしまう。イエスはそんな私たちの罪ある姿を見抜いています。どちらも罪を犯したことにおいて一緒ではないのか。罪の軽重は神が決めることであるのではないのか、それゆえに神のみが罪をゆるす権威をもっているのではないのか。
自分の罪の軽重を自己査定していくことで、結局自己義認に陥っているのではないのか。
私たちは深く反省し、悔い改める必要があるのではないでしょうか。主イエスの十字架のもとに立ち続けることで、私たちはたえずそんな自己義認の罪を悔い改め、また罪のゆるしを主イエスに乞うものでありたい。
時刻:
21:18

2013年03月03日「人知を超える神の平和」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章4~7節
説教要旨:
パウロは4節で「主において常に喜びなさい」と言います。
常に喜ぶことなどできるのでしょうか。まずできないのではないでしょうか。
ただパウロは「主において」と言っていることに注意したいと思います。
主においてとは、キリストにあってということです。キリストにあってとは、キリストの愛にあってということです。キリストの十字架に現れた神の愛によって、救われた者にとって、いついかなるときであっても、またどんなことが起ころうが、この救われたという事実は変わらないのです。
この事実を覚えるなら、常に喜ぶということは可能となるのです。
主の十字架によって罪が贖われ、赦された者は救いの喜びだけでなく、広い心が伴います。なぜなら自己義認から解き放たれるからです。
自己義認は他者を裁きます。自分は正しく、他者は悪いとみなす傾向を強くもちます。
裁くところに広い心はありません。他者受容の心は閉じられます。
十字架の神の恵みによって救われたがゆえに、自分の力によってではなく、徹頭徹尾神によって義とされたがゆえに、必然的に広い心とならざるをえないのです。
また私たちは思い煩いが多い生活をしていますが、そのことで主において喜ぶ生活から、遠くなります。なぜなら思い煩いゆえに、主イエスを忘れてしまいがちになるからです。
主イエスに思い煩いをゆだねるのではなく、思い煩いを自分で処理しようとするからです。
パウロは「主はすぐ近くにおられます」(5節)と言います。
私たちはすぐ近くにいる主イエスに向かい、求めているものを神に打ち明けることが大切です。
思い煩いを神に打ち明け、神に思い煩いの処理をゆだねることで私たちは思い煩いから解き放たれます。
そしてその結果人知を超える神の平和が訪れるのです。
説教要旨:
パウロは4節で「主において常に喜びなさい」と言います。
常に喜ぶことなどできるのでしょうか。まずできないのではないでしょうか。
ただパウロは「主において」と言っていることに注意したいと思います。
主においてとは、キリストにあってということです。キリストにあってとは、キリストの愛にあってということです。キリストの十字架に現れた神の愛によって、救われた者にとって、いついかなるときであっても、またどんなことが起ころうが、この救われたという事実は変わらないのです。
この事実を覚えるなら、常に喜ぶということは可能となるのです。
主の十字架によって罪が贖われ、赦された者は救いの喜びだけでなく、広い心が伴います。なぜなら自己義認から解き放たれるからです。
自己義認は他者を裁きます。自分は正しく、他者は悪いとみなす傾向を強くもちます。
裁くところに広い心はありません。他者受容の心は閉じられます。
十字架の神の恵みによって救われたがゆえに、自分の力によってではなく、徹頭徹尾神によって義とされたがゆえに、必然的に広い心とならざるをえないのです。
また私たちは思い煩いが多い生活をしていますが、そのことで主において喜ぶ生活から、遠くなります。なぜなら思い煩いゆえに、主イエスを忘れてしまいがちになるからです。
主イエスに思い煩いをゆだねるのではなく、思い煩いを自分で処理しようとするからです。
パウロは「主はすぐ近くにおられます」(5節)と言います。
私たちはすぐ近くにいる主イエスに向かい、求めているものを神に打ち明けることが大切です。
思い煩いを神に打ち明け、神に思い煩いの処理をゆだねることで私たちは思い煩いから解き放たれます。
そしてその結果人知を超える神の平和が訪れるのです。
時刻:
21:44

2013年02月17日「初めの愛に戻る」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章1~7節
説教要旨:
1節にある「右の手に7つの星を持つ方、7つの金の燭台の間を歩く方」というのはイエス・キリストを意味しています。
そのイエス・キリストがエフェソ教会の信徒たちがよく忍耐して、偽使徒たちのうそを見抜き、彼らに勝利を収めたことをほめています。しかし一方でイエスは「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」といわれ、戒めています。
確かにコリントの信徒への手紙一、13章にあるように「愛は忍耐強い」ものです。その点でエフェソの人たちは、ほめられていいのですが、愛は忍耐だけではありません。
イエスが批判されている「初めのころの愛」とはどういう愛であるのでしょうか。忍耐を指しているのではないことは、確かです。それは「互いに愛し合う」という愛です。教会内における愛の交わりから離れてしまったということをイエスは言われているのです。
エフェソ教会の創立当初は愛の交わりがあった。しかし今はないのです。なぜそうなってしまったのか。
偽使徒たちに対しての信仰の戦いにおける忍耐において、愛が少しずつ薄れていき、勝利したと思ったときはもう愛から離れてしまっていたのです。忍耐が長くなればなるほど、また忍耐の度合いが強ければ強いほど他者を愛する余裕がなくなってまいります。忍耐することで精一杯となってしまうからであります。
偽使徒たちにつく者たちとそうでない者たちとの間の愛の交わりがまず冷えてまいります。
愛から離れていきます。そして使徒たちにつかない者たちの間でも長い忍耐ゆえに、心の余裕がなくなり互いに愛することがなかなかできなくなります。そして最後は偽使徒たちについた者の中で、自分の誤りに気付き悔い改めた者に対して偽使徒につかなかった者が彼らを受け入れることができず、愛することができない状態が起こったのです。
「互いに愛し合いなさい」という戒めだけでなく、「互いに赦し合いなさい」という主の戒めが守られていなかったのです。
この愛がないならエフェソの教会は主のからだとしての教会でなくなるとイエスは言われているのです。
「あなたの燭台をその場所から取り除けてしまおう」(5節)さえ言われているのです。
そうならないためにイエスは教会ができて間もないころの愛に戻りなさいと言われているのです。
説教要旨:
1節にある「右の手に7つの星を持つ方、7つの金の燭台の間を歩く方」というのはイエス・キリストを意味しています。
そのイエス・キリストがエフェソ教会の信徒たちがよく忍耐して、偽使徒たちのうそを見抜き、彼らに勝利を収めたことをほめています。しかし一方でイエスは「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」といわれ、戒めています。
確かにコリントの信徒への手紙一、13章にあるように「愛は忍耐強い」ものです。その点でエフェソの人たちは、ほめられていいのですが、愛は忍耐だけではありません。
イエスが批判されている「初めのころの愛」とはどういう愛であるのでしょうか。忍耐を指しているのではないことは、確かです。それは「互いに愛し合う」という愛です。教会内における愛の交わりから離れてしまったということをイエスは言われているのです。
エフェソ教会の創立当初は愛の交わりがあった。しかし今はないのです。なぜそうなってしまったのか。
偽使徒たちに対しての信仰の戦いにおける忍耐において、愛が少しずつ薄れていき、勝利したと思ったときはもう愛から離れてしまっていたのです。忍耐が長くなればなるほど、また忍耐の度合いが強ければ強いほど他者を愛する余裕がなくなってまいります。忍耐することで精一杯となってしまうからであります。
偽使徒たちにつく者たちとそうでない者たちとの間の愛の交わりがまず冷えてまいります。
愛から離れていきます。そして使徒たちにつかない者たちの間でも長い忍耐ゆえに、心の余裕がなくなり互いに愛することがなかなかできなくなります。そして最後は偽使徒たちについた者の中で、自分の誤りに気付き悔い改めた者に対して偽使徒につかなかった者が彼らを受け入れることができず、愛することができない状態が起こったのです。
「互いに愛し合いなさい」という戒めだけでなく、「互いに赦し合いなさい」という主の戒めが守られていなかったのです。
この愛がないならエフェソの教会は主のからだとしての教会でなくなるとイエスは言われているのです。
「あなたの燭台をその場所から取り除けてしまおう」(5節)さえ言われているのです。
そうならないためにイエスは教会ができて間もないころの愛に戻りなさいと言われているのです。
時刻:
20:22

2013年02月10日「エデンの園から十字架へ」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:創世記3章1~24節
説教要旨:
今日の箇所は人間にどうして死がやってきたのか、苦難がやってきたのかを説明している箇所です。
それはアダムとエバが神の命令に逆らい罪を犯した結果であることを告げています。
しかし二人は自分たちが犯した罪の責任を他者に転嫁しています。
アダムはエバに、エバは蛇に転嫁しています。これは私たちもよくすることであります。
しかし究極において責任は犯した本人にあります。なぜなら人間は自由意志をもっているからです。
人間は神に従う自由も、逆らう自由ももっているからです。
神は人間を単に神に絶対服従する者としては造られませんでした。
ロボットのようには造られなかったのです。人間を自由意志をもった者として造られたのです。
その自由を人間は神に従うことで行使することも、神に逆らうことで行使することもできるのです。
神は私たちに主体的に神の戒めに従うことを求めているのです。あやつり人形のように従うことを求めているのではないのです。
人間の歴史は神に従わない自由を行使する傾向を強くもった歴史であります。その結果様々な悪がこの世に生まれました。人間は悪であることを知りつつ、悪を行ってきたのです。
それは、アダムとエバがエデンの園の善悪を知る木の実を食べた結果、死が人間に入ってきたのですが、食べることによって善悪を知る者となったからです。善悪を知る者になって善を行うことをすればいいのですが、それがなかなかできないのが人間であります。悪いと知りつつしてしまうのが、人間であります。神はそのことを恐れました。また二人が命の木から実を取って食べて、永遠に生きる者となる
ことも恐れました。悪いことを多く行う人間が命の木から取って食べることで永遠に生きる者になるならば、平和なエデンの園が破壊されるのは、時間の問題です。神はそのことを恐れたのです。
破壊される前に神はアダムとエバを楽園から追放したのでした。
追放された二人は自由意志を剥奪されず、持ち続けます。その後の人間も神に逆らう方向で自由意志を行使することが多く、世の中が乱れます。そしてその延長線上に今日の世界の現状があります。
神の平和はなかなか到来しません。神に逆らう方向で自由意志を行使することで様々な憎悪の関係が、争いが、敵意、差別がこれまで生まれてきました。人間はそれらを未だ克服していません。
アダムとエバが責任を他者に転嫁することで生まれた溝や壁は今日においても克服されていません。
私たちはどうしたら克服できるのでしょうか。それは一重に主の十字架にあります。
人間の罪の歴史がたどり着いた先に主の十字架が立っています。この十字架を通ることなしには、私たちには神の平和は訪れません。主の十字架を前にして、私たちは今まで犯した罪を悔い改め、罪を贖われて、新たに出発するしかないのです。私たちは主の十字架に従う自由も、従わない自由ももっていますが、一体どちらに自由を行使するのでしょうか。人類の未来は、主イエスに従う自由を行使することにかかっているのです。
説教要旨:
今日の箇所は人間にどうして死がやってきたのか、苦難がやってきたのかを説明している箇所です。
それはアダムとエバが神の命令に逆らい罪を犯した結果であることを告げています。
しかし二人は自分たちが犯した罪の責任を他者に転嫁しています。
アダムはエバに、エバは蛇に転嫁しています。これは私たちもよくすることであります。
しかし究極において責任は犯した本人にあります。なぜなら人間は自由意志をもっているからです。
人間は神に従う自由も、逆らう自由ももっているからです。
神は人間を単に神に絶対服従する者としては造られませんでした。
ロボットのようには造られなかったのです。人間を自由意志をもった者として造られたのです。
その自由を人間は神に従うことで行使することも、神に逆らうことで行使することもできるのです。
神は私たちに主体的に神の戒めに従うことを求めているのです。あやつり人形のように従うことを求めているのではないのです。
人間の歴史は神に従わない自由を行使する傾向を強くもった歴史であります。その結果様々な悪がこの世に生まれました。人間は悪であることを知りつつ、悪を行ってきたのです。
それは、アダムとエバがエデンの園の善悪を知る木の実を食べた結果、死が人間に入ってきたのですが、食べることによって善悪を知る者となったからです。善悪を知る者になって善を行うことをすればいいのですが、それがなかなかできないのが人間であります。悪いと知りつつしてしまうのが、人間であります。神はそのことを恐れました。また二人が命の木から実を取って食べて、永遠に生きる者となる
ことも恐れました。悪いことを多く行う人間が命の木から取って食べることで永遠に生きる者になるならば、平和なエデンの園が破壊されるのは、時間の問題です。神はそのことを恐れたのです。
破壊される前に神はアダムとエバを楽園から追放したのでした。
追放された二人は自由意志を剥奪されず、持ち続けます。その後の人間も神に逆らう方向で自由意志を行使することが多く、世の中が乱れます。そしてその延長線上に今日の世界の現状があります。
神の平和はなかなか到来しません。神に逆らう方向で自由意志を行使することで様々な憎悪の関係が、争いが、敵意、差別がこれまで生まれてきました。人間はそれらを未だ克服していません。
アダムとエバが責任を他者に転嫁することで生まれた溝や壁は今日においても克服されていません。
私たちはどうしたら克服できるのでしょうか。それは一重に主の十字架にあります。
人間の罪の歴史がたどり着いた先に主の十字架が立っています。この十字架を通ることなしには、私たちには神の平和は訪れません。主の十字架を前にして、私たちは今まで犯した罪を悔い改め、罪を贖われて、新たに出発するしかないのです。私たちは主の十字架に従う自由も、従わない自由ももっていますが、一体どちらに自由を行使するのでしょうか。人類の未来は、主イエスに従う自由を行使することにかかっているのです。
時刻:
15:28

2013年02月03日「あなたがたは光の子」渡辺敏雄牧師
聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一、5章1~11節
説教要旨:
今日の箇所にはキリストの再臨のことが言われています。
再臨のことはイエスご自身が言われていることでもあり、確実に来るのですが、そのときがいつかは誰も分からないのです。いつ来るか分からないから目を覚ましていることが大切になります。
でも生理的にたえず目を覚ましていることは実際には無理です。
ですからこの箇所では、霊的に目を覚ましていることが言われているとみてよいと思います。
霊的に目を覚ましているとは、「主と共に生きる」(10節)ことと置き換えてもいいかと思います。
主と共に生きるとき、私たちは確実に光の子であります。なぜなら光であるキリストが私たちの内に住むからです。もしキリストと共に生きることができないなら、私たちは闇の子となってしまいます。
なぜなら光であるキリストを内に宿すことができず、私たちの心の内は闇のままであるからです。
私たちはキリストが内に住むことによって光の子とされますが、その光の子にも悪魔は襲ってきます。私たちを闇へと誘います。その悪魔の攻撃、誘惑に打ち勝つために私たちは「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶる」(8節)ことが大切です。
信仰とはキリストへの信頼、愛とはキリストの愛、救いの希望とは御国の希望です。
これらのものをいつも身に着けて歩むことで、悪魔の攻撃や誘惑から私たちは守られるのです。
守られるだけでなく、光の子として内から光を発し輝き続けることができるのです。
世の光として機能していくのです。
説教要旨:
今日の箇所にはキリストの再臨のことが言われています。
再臨のことはイエスご自身が言われていることでもあり、確実に来るのですが、そのときがいつかは誰も分からないのです。いつ来るか分からないから目を覚ましていることが大切になります。
でも生理的にたえず目を覚ましていることは実際には無理です。
ですからこの箇所では、霊的に目を覚ましていることが言われているとみてよいと思います。
霊的に目を覚ましているとは、「主と共に生きる」(10節)ことと置き換えてもいいかと思います。
主と共に生きるとき、私たちは確実に光の子であります。なぜなら光であるキリストが私たちの内に住むからです。もしキリストと共に生きることができないなら、私たちは闇の子となってしまいます。
なぜなら光であるキリストを内に宿すことができず、私たちの心の内は闇のままであるからです。
私たちはキリストが内に住むことによって光の子とされますが、その光の子にも悪魔は襲ってきます。私たちを闇へと誘います。その悪魔の攻撃、誘惑に打ち勝つために私たちは「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶる」(8節)ことが大切です。
信仰とはキリストへの信頼、愛とはキリストの愛、救いの希望とは御国の希望です。
これらのものをいつも身に着けて歩むことで、悪魔の攻撃や誘惑から私たちは守られるのです。
守られるだけでなく、光の子として内から光を発し輝き続けることができるのです。
世の光として機能していくのです。
時刻:
21:12

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