2009年8月30日「主イエスを信じなさい」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:使徒言行録16章16~34節

説教要旨
今日の箇所はパウロとシラスがヨーロッパ伝道を開始してまもない頃の出来事です。彼らは3つの出会いを経験します。3つの出会いを通して、私たちは神の不 思議な導きを知ることになります。
一つ目は占いの女奴隷との出会いです。占いの霊にとりつかれていた女奴隷はパウロたちの福音伝道を妨害することをします。一見パウロたちの味方であるかの ように「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫んでいますが、実体は悪霊の叫びであります。悪霊は狡猾です。し かしパウロは正体を見抜いています。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出ていけ」と言って悪霊の追い出しをします。悪霊から解放された女 は占いの力がなくなります。奴隷の主人は金儲けができなくなったことで怒り、パウロたちを捕らえ、牢獄にぶち込むことになります。

この牢獄の中で2番目の出会いが起こります。囚人たちとの出会いです。パウロたちは牢獄の中にあっても、神を賛美ます。普通なら、うるさいと怒鳴ら れるはずですが、囚人たちは怒鳴ることもありません。静かに聞き入るのです。
さらに大地震が起こります。そして牢の戸が全部開いてしまいます。囚人たちは皆逃亡するかと思いきや、誰一人逃亡するものはいません。
不思議なことが起こりました。囚人たちはパウロたちとの出会いを通して人間を超えた御方の臨在に触れたとしかいいようがありません。

さらにこの出来事を通して3番目の出会いが起こります。それは看守と神との出会いです。看守は当然囚人たちは逃亡してしまったと思いました。となる と自分は逃亡させた罰として死刑にもなりかねません。
辱めるを受けるよりも自害しようと看守はします。パウロは看守に自害してはいけない、私たちは誰一人逃亡などしていないと説得します。看守は事態を冷静に 見る中、自分は死ななくてもいいのだと悟ります。

そしてパウロたちに尋ねます。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。 パウロは言います。「主イエスを信じない。そうすれば、あなたの家族も救われます。」 その言葉を受けて看守とその家族全員が洗礼を受けることになったのです。
誰が女奴隷との出会いから看守とその家族の洗礼へと導かれると予想できたでありましょうか。誰もできなかったことでしょう。そこには神のご計画がありまし た。神のご計画を私たちは当初は理解できないことが多いのです。しかし後になって振り返ってみると、ここに至るまで神の導きが背後にあったのだなと悟るこ とになるのです。万事に相働いて益となす神のご計画を知ることになるのです。

2009年8月23日「信仰の成長」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヘブライ人への手紙11章1~12節


説教要旨
ヘブライ人への手紙11章では旧約聖書に登場してくるいろいろな人物がとりあげられています。なぜとりあげられているのでしょうか。それは私たちの信仰の 模範として、モデルとしてび、倣うためであります。
ヘブライ書の著者は迫害の中にあって、あるいは終末(キリストの再臨)の遅延という状況下にあって、信仰に動揺を覚えている信徒たちを励ますために手紙を 書いています。

旧約聖書の信仰の先達たちをとりあげ、彼らの信仰が究極のところ神への信頼にあったことを思い起こさせています。キリストの再臨の約束、またいかな る迫害に遭おうとも救いは揺るぎないものとしてあること、永遠の命の約束は必ず実現することを確信させ、神に信頼することの大切さを説いているのです。

私たちの信仰においても、動揺するときはあります。旧約聖書の人々も動揺することはありました。しかし動揺しても、最終的には神に信頼し、神にすべ てをゆだねた信仰を私たちは学びべきであります。
神の約束は真実であります。人間の約束は裏切られることがあります。たとえ今は約束の実現が視野に入ってこない状態であっても、必ず神の約束は実現すると いうことを確信し、信仰の生涯を全うしていきたい。

2009年8月16日「パウロの祈り」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章1~11節

説教要旨
フィリピの信徒への手紙はパウロが獄中にいたときに書かれた手紙であります。獄中の中、死の危険さえあったときのものであります。そんな状況の中でもパウ ロはフィリピの信徒たちのことを片時も忘れることなく信徒たちのためにとりなしの祈りを献げていました。 それほどにパウロのフィリピの信徒たちに対する愛は強いものがありました。

獄中ということで物理的にはフィリピの教会とは離れていますが、祈りにおいてパウロはフィリピの教会とつながっているのです。私たちも生活において 教会から物理的に離れることはありえます。病気のとき、入院のとき、特別の所用のときなど離れます。しかし祈りにおいてつながるのです。教会のことを覚え て祈る、また教会の人は離れている人を覚え、祈る。そのようにして互いは祈りにおいて、キリストのからだである教会につながるのです。

パウロは3節、4節でフィリピの人々が信仰を堅く守って生活していることに感謝しています。そしてそのことはあくまでキリストの働きによることを確 信しています。
フィリピの人たちの信仰の堅持が自分の力によてではなく、フィリピの人々の力によってでもなく、ただ一重に神の働きであり、神の恵みであることをパウロは 知っていたのです(6節)。パウロはあくまで栄光を神に帰しています。私たちの祈りにおいて、このことは大切なことであります。

さらにパウロは9節以下でフィリピの人々がキリストにあって信仰の成長を遂げることを祈っています。このパウロの祈りは私たちの祈りでもあります。 パウロの祈りはフィリピ書が聖書に含まれたがゆえに、フィリピの教会の人たちだけでなく、今日を生きる私たちにも届いているのです。
私たちはパウロの祈りに呼応し、パウロの祈りが私たちの内で実現することを祈るべきです。ただそれだけにとどまらず、自分以外の人においても実現するよう に祈っていくことも大切なことです。
祈りは双方向性をもつことを私たちは知る必要があります。パウロとフィリピの教会の 人たちの間にはこの双方向性をもった祈りがなされていたといえるのです。

2009年8月9日「とこしえの愛をもって」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エレミヤ書31章1~6節 3、遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。
4、おとめイスラエルよ、ふたたび、わたしはあなたを固く建てる。再び、あなたは太鼓をかかえ、楽を奏する人々と共に躍り出る。
5、再び、あなたは、サマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人々が、植えたその実の初物を味わう。
6、見張りの者がエフライムの山に立ち、呼ばわる日が来る。「立て、我らはシオンへ上ろう、我らの神、主のもとへ上ろう。」


説教要旨

「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛している」との御言葉は、私たちがいかなる状況におかれようと真実な言葉として臨んでいます。しかしそれを聞く 私たちはそのようには受け取れないのです。
今ある苦難を見ると、とても神の愛など信じることができないのです。神の言葉も信じることができないのです。

それが当時のイスラエルの民の思いでありました。なぜなら国は滅び、民は異教の地バビロンへと捕囚されていったのです。神の選びの民であるのに、ど うして神は私たちを見捨てたのかという思いが強くあったのです。神へのある種の絶望がそこにはありました。
そんな民に神は「とこしえの愛をもってあなたを愛している」と語られたのです。
神の愛は私たち人間から見ればとても愛することなどできない者を愛する愛です。

民がそのような苦難の境遇に置かれたのは、偶像礼拝をはじめとする民の罪があったからです。自らが招いたことであり、いわゆる自己責任を問われるこ とであります。
それにもかかわらず民は不遜にも神は私たちを見捨てた、神などもう信頼することなどできないと自ら神との契約を破ったことなど忘れたがごとく振舞ったので あります。普通ならそのような者をなおも愛するなどできないことです。

神はそうではありません。神の愛は主イエスの十字架において極まります。十字架を前にしてイエスをののしり、嘲った者に対しても、彼らの罪のゆるし を願われたのがイエス・キリストであります。
私たちの罪がいかに深く重くとも、なおも神は私たちを愛しているのです。「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」とい う言葉が主の十字架において実現しているのです。

2009年8月2日「キリストは私たちの平和」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章14~22節 14、実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
15、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
16、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
17、キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
18、それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つに霊に結ばれて、御父に近づくことが出来るのです。


説教要旨

私たちの周りには敵意に満ちている関係があります。国と国、宗教と宗教、民族と民族、人種と人種、階級と階級、会社と会社、隣人と隣人、さらに家族内にお いてさえあります。 聖書はキリストの十字架は敵意を滅ぼしたと述べております。
十字架の血潮によって私たちの間にある敵意は基本的には滅ぼされたのです。なぜなら私たち人間と神との和解がすでに十字架において果たされているからで す。

その神との和解という土台があるからこそ、どんなに困難に思えるような人と人との和解も可能であり、また事実神は和解をなすのであります。
今世界は和解の御業の成就へ向けてキリストの十字架のもとにあります。この地球という大きなキリストのからだである目に見えない教会には全世界の民が住ん でいます。全世界の民を神は救おうとされておられます。誰もそこから漏れる人はいません。

現実には敵意が相互に民の間にあったとしても、神はそこに和解のわざをなそうとされておられます。最終的には神は私たちの間から敵意を滅ぼし、和解 をなし、世界の民を一つにしようとされています。
この神の御心をなすために世界にある個々のキリストのからだである教会は 召されていることを覚えたい。

2009年7月26日「あなたは私の助け」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:詩編70編
2、神よ、速やかにわたしを救い出し、主よ、わたしを助けてください。
3、わたしの命をねらう者が恥を受け、嘲られ、わたしを災いに遭わせようと望む者が、侮られて退き、
4、はやし立てる者が、恥を受けて逃げ去りますように。
5、あなたを尋ね求める人が、あなたによって喜び祝い、楽しみ、御救いを愛する人が、神をあがめよといつも歌いますように。
6、神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。


説教要旨
この詩人は神の助けが一刻も早く訪れるのを待っています。なぜなら詩人には死を覚悟するほどの危機が訪れているからです。その危機は切羽詰まったものであ るがゆえに、詩人は「速やかにわたしを救い出し」(2節)と神の助けを求めているのです。

普通わたしたちは、苦難の中にいないとき、神は近くにおられると感じます。一方苦難の中にいるとき、神は自分から遠く離れておられると思ってしまい ます。
しかし詩人はそうではなく、神は人生の良いときも悪いときもいつもそば近くにおられるとの確信をもっています。

事実神はいつもわたしたちとともにおられます。そば近くに。
それがイエス・キリストにおいて現れたインマヌエル(神われらとともにいます)の神であります。ですから詩人は遠く離れた神に祈っているのではなく、近く にいる神に祈っているのです。

神がいつもそば近くにおられるとの確信は神は助け主であり、逃れ場であるとの告白につながり、救いの確信ともなっているのです。そしてその告白は 「わたしは貧しく、身を屈めています」という姿勢から出てくるのです。
おごり高ぶりから出てくるものではありません。もしおごり高ぶりが祈りにあるなら、救いは訪れないでしょう。

わたしたちが詩人と同じように貧しく(主の前にあってへりくだること)、身を屈め、 主の助けを呼び求めるなら、詩人が確信したように主は必ず助けてくださることでしょう。

2009年7月19日「十字架のもとへ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヤコブの手紙、1章9~12節
9、貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。
10、また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。
11、日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。
12、試練に耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

説教要旨

今日の箇所は富める者と貧しい者が対比されています。この対比は物質的に富んでいる、貧しいということだけに留まりません。いろいろなことにおいて富むと いうことの危険が指摘されているのです。人は富むことで、往々にして傲慢になり、おごり高ぶり、神を忘れ、「神が二の次となる危険があるのです」

一方さまざまな面において貧しいということは、欠乏していることであり、欠乏を満たすものを求めるということになります。そこにはおごり高ぶるとい うことは起こりにくいのです。神はそういう人を求めています。貧しさゆえに、逆に神によって 高められるということが起こるのです。
人は試練の中にあるとき、おごり高ぶりは消えます。貧しく低くならざるをえないのです。私たちが試練の深淵にあるとき、そこにキリストの御手は伸ばされま す。そして引き上げられ、高められるのです。

逆に富める者はおごり高ぶるがゆえに、キリストによって低められるのです。低められたとき、そのことを感謝し、キリストに救いを求めることが大切で す、
おごり高ぶりが激しくなるとき、ついには草花のように滅び去ることさえ起こりかねません。そうならない前に、悔い改め、キリストの救いを仰ぎたいと思いま す。私たちはいつも十字架のもとにあって、貧しい者でありたい。