2011年02月27日「キリストの命」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:コロサイの信徒への手紙3章1~17節

説教要旨:
人は誰でもより良い生き方を望んでいますが、ではそれは一体どういう生き方かとなると分からない、定まっていない人が多いものです。
キリスト教では聖化ということがより良い生き方と深く関係してきます。
聖化、それは今日の聖書の箇所で言えば、「上にあるものを求める」生き方であります。
そのことを聖書の別の箇所でいえば「天に宝を積む」生き方です。
今日の箇所では人生の2つの方向性が示されています。ひとつは地への方向です。
それは欲望がコントロールされないところから出てくる罪に満ちた生き方です。
もうひとつは神への方向です。それは聖霊による生き方です。
復活のキリストの命を聖霊において内に宿し、その命によって上にあるものを求める生き方です。
これは洗礼において開始されていく生き方です。洗礼において、地上的なものを求める古い生き方を十字架につけ、代わりに復活のキリストの命をいただき新しい命に生きる(新生)ことで、必然的に上にあるものを求める(聖化)生き方をすることになります。その生き方から生み出される具体的なものとして12節以下の事柄が勧められているのです。
ここで私たちが気をつけないといけないことは、上にあるものを求めるのは自分ではなく、聖霊において内に住むキリストの命がそうさせてくださるのだということです。
自我の強い私たちには、地上的な生き方しかできませんから、それを自力で押さえ込もうとするとき、ファリサイ派のような窮屈な信仰生活となります。そうではなく、聖霊によって自我が砕かれ、欲望がコントロールされることで上にあるものを求めることができるのです。

2011年02月20日「わたしについて来なさい」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:マルコによる福音書1章16~28節

説教要旨:
主イエスは「わたしについて来なさい」と言われます。4人の弟子たちはただちに、この言葉に従いました。でもよく考えてみれば、見ず知らずの人からこのようなことを言われて、素直についていく人などいるのでしょうか。おそらくいないでありましょう。
このことが起こったのは一重に神の言葉であるイエス・キリストの御声ゆえであります。
イエスの言葉には神の権威がありました。律法学者の権威はこの世の権威です。
そこには大きな違いがあります。
主イエスとともにやってきた神の権威が支配する場、それが神の国です。
神の国においては悪霊は場を占めることがでません。
私たちは主イエスの招きの言葉に従うとき、神の国の中へと入ります。
そして主イエスとの交わりにおいて神の国の完成に向けて主とともに前進するのです。
主とともに歩むとき、弟子たちは神の国へと人々を招く使命を主より帯びます。
一人でも多くの人が招きに応じるように主とともに活動します。
私たちもまた弟子たちと同じように主の言葉を聞き、主の招きに応じた者であります。
招きに応じた私たちも、弟子たちと同じ使命を帯びています。
弟子たちのように生活の一切を捨てて従う者ではありませんが、それぞれが置かれた場において主より与えられている使命に生きることが求められています。
主の福音の証し人として主に応答して生きる毎日でありたい。

2011年02月13日「御言葉は滅びない」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ルカによる福音書21章20~36節

説教要旨:
今日の箇所はキリストの再臨のことが言われています。
なかなか素直に受け入れがたいものが信仰者といえどもあるかと思います。
でもキリストの再臨、終末信仰はキリスト教信仰にとって非常に大事なことであります。
なぜなら永遠の命にかかわることであるからです。再臨が信じられないなら、永遠の命もまたないのです。キリストの再臨があって、神の御国が完全に成就し、新しい天と地がなるとき、私たちに永遠の命が与えられ、私たちはそこに永遠に神とともに住むのです。
ですから私たちは終末に関して心する必要があるのです。
今日の箇所で様々な終末の徴が与えられるとイエスは言われます。
歴史の大変動や天体の大変動という徴があると言われます。でもそれは終末の訪れの徴であって、終末そのものではないことに私たちは心する必要があります。終末はイエス・キリストが再臨されるときです。
それが起こってはじめてこの世の終わりとなるのです。
ですから私たちは気をつけねばなりません。天変地異や疫病の流行、大戦争などが起こると多くの偽預言者が歴史上登場し、世の終わりを告げ、人々を惑わしました。
でもこの世は今も続いています。神がこの世の終わりの鍵を握っておられるのです。
決して人間ではないのです。神がキリストを私たちのところに遣わすと決断されたとき、そこでこの世の終わりが到来するのです。
そしてこの世の終わりはまったく突然起こるのではなく、ある徴を伴うと言われます。
そのことは神の私たちに対する配慮といえます。そのことで私たちは終末に備えることができるからです。
しかし備えをするには、徴を見逃さないことが大切となります。
この世の事ばかりに目や心がいってしまっていると、その徴を私たちは見逃してしまいます。
だからイエスは言われるのです。「心の鈍くならないように注意しなさい」(34節)、「いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)と。

2011年02月06日「本物と偽物の違い」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:エレミヤ書23章16~32節

説教要旨:
世の中に本物と偽物があるように、預言者にも本物と偽物があります。
今日の箇所では、偽物の預言者が出てきます。彼らは、主の名によって語りますが、実は偽りであり、神の御心を語っていません。
彼らは、バビロニアによって国は存亡の危機にあるのに、「平和だ、災いは来ない」と語ります。そしてその言葉が民に受け入れられます。なぜなら民の願望に沿ったものであるからです。
でも神の御心は違いました。偽預言者によって、このように神の御言葉はないがしろにされるのです。
これまでにも教会の歴史において、この類の偽預言者が多く現れました。
そして民もイスラエルの民と同じように、その言葉に惑わされ、道を誤るこということが起こりました。
本物の預言者は、神の御心を語ります。その言葉が人々にとって聞きたくない苦い言葉であれ、つらい言葉であれ、語り告ぐのが本物の預言者です。エレミヤはその中の一人です。
私たちもエレミヤのような本物の預言者になりえます。ただそれは一重に聖霊によります。
聖霊の満たしなしには、私たちは容易に偽預言者となります。
本物、偽物の違いは、外観においてではなく、その中身において現れます。
信仰者にとって、その中身とは聖霊が内に充満している度合いにおいて計られるのです。

2011年01月23日「主において喜ぶ」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4章4~7節

説教要旨:
4節には「主において常に喜びなさい」といわれています。
「常に」といわれますと、非常に難しいように思われます。私たちの毎日の生活は、喜びばかりの生活ではありません。悲しみのとき、嘆きのとき、悩みのとき、苦しみのときなどあります。
ではいかにしてそれは可能なのでしょうか。「主において」ということに注意したいと思います。
「主において」でなければ、それは不可能でしょう。
「主において」とは、主との交わりにおいてということです。主の御手のうちにおいてということです。
主イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。
罪と死に勝利した主イエスとの交わりが私たちに喜びをもたらすのです。主の御手に私たちは握られているのです。
御手のうちにあるこの交わりは、いついかなるときにおいても誰も取り去ることができません。だから「常に」があるのです。
私たちは日々の生活に将来に対して思い煩いをもちます。今の取り巻く状況が打開困難であり、苦難に満ちているとき、私たちは思い煩います。喜びはそこにはありません。でもそんな状況下においても主イエスは共にいます。その共にいます主に感謝し、既に世に勝たれている主に重荷と苦難の一切をゆだねるとき、
「あらゆる人知を超える神の平和」が私たちに訪れます。そして「あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」のです。

2011年01月16日「主の慰め」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:イザヤ書66章7~14節

説教要旨:
今日の箇所では、主の慰めが母性的イメージで表現されています。
人間の慰めの中には、社交儀礼的な慰めもあります。しかし母親の子に対する慰めは、真実なものではないでしょうか。その母と子の関係の比喩で言われる主の慰めもまた
真実なものであります。私たちは勢いのあるとき、順風満帆のときは、慰めなど必要としません。
むしろもっと奮い立つようなことを言ってくれる人を待ちます。
しかしそうでないとき、つまり苦難と試練の中にあるとき、悲しみと嘆きの中にあるときは、心から真実に慰めてくれる人を求めます。信仰者にとって、その人は神であります。
旧約聖書の神は、何か怖い、厳ついイメージを持ちがちですが、決してそれだけではなく、母性的な面ももっているのです。
このような母性的神のイメージはやはりバビロン捕囚期から始まるものであろうと思われます。
国は滅亡し、捕囚の民として異国の地バビロンで、逆境の中で生活しているユダヤの民にとって、母性的神が求められたのも、無理からぬところであります。
預言者イザヤを通して神は母性的イメージで民に対して慰めを語られたのであります。
私たちも苦難と試練の中にあるとき、すべてを包含するような優しい母親のような神に向かい、そして抱かれ、慰められることが必要です。なぜなら主の慰めは真実であるからです。
母親を超えるほどの慰めでもって、主は私たちを抱いてくれます。

2011年01月09日「昨日、今日、明日」渡辺敏雄牧師

聖書箇所:ヨハネの黙示録1章4~8節、22章16~21節

説教要旨:
ヨハネ黙示録1章4節、8節には「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と言い表されています。
その御方はイエス・キリストであります。やがて来られる方はかつておられた方であり、今おられる方です。
このように言われますと、不思議な感じがします。
かつて来られた方が、今おられるなら、どうしてやがて来られることなどあるのでしょうか。
すでに今来ているなら、どうして「主イエスよ、来てください」と願う必要などあるのでしょうか。
主イエスはすでに2000年前クリスマスにおいて来られています。それは旧約聖書に預言された通りでありました。主イエスは旧約で預言されたとおり、そのメシアとしての使命を果たし、父のもとへ昇られました。
今は目に見える形においては、この地上におられません。ではなぜ「今おられ」と言うのでしょうか。
それは、主イエスが自分の代わりに聖霊を私たちのところに遣わすことを約束されたからです(ヨハネ福音書14章16節)。聖霊において主イエスは私たちと共にいるのです。聖霊は確かに目には見えません。
でも聖霊は、風と同じように目には見えないけれでも感じることはできるはずです。
私たちが聖霊を信じるなら、主イエスが今共にいることを実感できるのです。
ですから聖霊において今おられというのが本当のところであります。
ではそのまま目に見えない形のままでずっとおられるのでしょうか。そうではありません。
主が再び私たちのところに来られるとき、目に見える形においてやって来られます。
そのときは、終末のときです。神の永遠の御国が成就するときです。
一切の苦難は終わりを告げるときです。
黙示録が書かれた当時、クリスチャンは激しい迫害の中にありました。ゆえに一刻も早く迫害の終わるときを待望せざるをえませんでした。主が再び来られるとき、それは迫害が終わるときです。永遠の命が実質的に与えられるときであります。そのときを願いつつ、今聖霊において共におられる主イエスに支えられ、慰められ、励まされ、勇気づけられて迫害の中生きていたのです。私たちも原始キリスト教会のキリスト者たちと同じ信仰をもって、この世の苦難に立ち向かっていきたい。